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第九章 第20話
「しかし、あんなトイレの上で良く眠れましたね…」
京都の町は、祐樹が学会などで色々な都市に行くが、喫茶店の内装や設備充実していないことはもしかしたら日本一なのではないかと思ってしまう。先ほどの喫茶店も、トイレは男女兼用だ。ただ、京都では珍しいことに洋式の便器だったが…。
「甘―い…まだまだ修行が足りないわよ、田中先生は。この土日はウチの先生が2人もステっちゃって…それで寝る暇がなかったのよ。用を済まして、そのままストンと寝ちゃったのよね・・・」
ステルベン…ドイツ語で「死」を意味する言葉だが、何故か救急救命室では隠語めいた使用法をする。過労で使い物にならなくなった人間を意味するのだ。祐樹はまだそんな羽目には陥ったことは幸いにして無かったが。長時間休みなしに働くと、過労と睡眠不足で虚脱状態になる。そうなれば眠ることも出来なくなり、ただ放心状態が襲ってくるらしいと聞いていた。
「では…またまた人手不足ですか…私も今日はそちらの勤務なのですが…」
「そうよ。貴重な戦力として期待しているから、心臓外科の勤務が終ったら直ぐに来てね」
彼女の言葉は形の上ではお願いめいているが、口調は命令だ。げんなりして頷く。折角、教授が部屋に居るのに…阿部師長は言外に徹夜勤務を匂わせる。
「まぁ、私生活も幸せなんだから、良いじゃない?あたしなんか私生活を放り出しているんだからさ」
確かに彼と一緒の時は満たされた気分になることは確かだ。ただ、彼は聞かれたことには答えるが、自分からは何も言わないのが気にかかる。まぁ、彼の性格は大体分かってきているので、祐樹に対してだけでなく、他の誰に対してもそうなのだろうとは思うが、好きな人のことは――我が儘だが…何でも知りたくなるのが人情だ。
あの喫茶店での触れ合いを見られたのが彼女で良かったと思う。もし、他の人間だったら…と思うと背中に冷や汗が伝った。
「ああいう関係がもし病院関係者に知れたら、どうなりますか?人事面などで評価は下がりますか?特に教授は?」
阿部師長は、この病院のことも良く知っている。この際、聞いておこうと思った。早足で歩きながら会話をしていた。
「患者さんに手を出したわけではないし。教授が田中先生をパワー・ハラスメントでモノにしたってワケでもなさそうだから…別に病院としては教授の私生活に関しては何も処分出来ないと思うけど?ただ、ナースや他の先生には格好のウワサの餌食にはなるくらいじゃないかな。教授は教授会でチクチク言われる程度でしょうよ。田中先生に憧れているナースは涙、涙でしょうけど」
やはり気をつけないといけないな…と思う。ウワサが流れたら、傷付くのは教授だ。祐樹は自分から誘ったと今では思うようになって来ているのでウワサもそれほど怖くはない。
「そうですね…気をつけます。でも、何ですか?その涙、涙っていうのは?」
「やだな、気付いてないの?田中先生を狙っているナース…たくさん居るのよ」
「それはなんとなく感じましたが、しかじ、告白されたこともありませんし…」
祐樹のような性癖を持つ人間は、ストレートに告白することが多い。仄めかすということも有るが、それもやはり露骨だ。昔、合コンに出席して女性と帰ったことは有るが、それも「2人きりになりたい」と向こうから言って来たことが多い。なのでそういうものかと思っていた。
「田中先生って…恋愛の場数は踏んでいるようだけど、物事をストレートに言って貰わないと分からないタイプの典型だわよね。まぁ、ドクターにそういう人は多いのだけれど」
肩を竦めて、阿部師長は彼女の戦場に戻って行った。
祐樹も医局に入る。まずは、今日の手術の指示書を読むべく、先に来ていた柏木先生に挨拶し、彼が持っている指示書をコピーさせてもらう。
今日の手術は黒木准教授が香川教授の体力を顧慮したのだろう、一例だけだった。第一助手には祐樹の名前があった。指示書を読んでいると、誰が作成したのかは文書の癖で分かる。これは香川教授の指示だ。
彼の時間は祐樹がかなり奪っているにも関わらず、相変わらずの緻密さだった。処理速度が抜群に速いのか…?と思わせる。
多分、祐樹がこの文書を作るとなれば一日がかりに違いない。手術の手順を頭に叩き込んだ。
祐樹が医局にいるからか、医局の雰囲気がどことなく固い。畑仲医局長や山本センセがあからさまに祐樹を煙たがっているのは感じていた。変わらずに接してくれるのは柏木先生くらいだ。昨日までの祐樹なら、この部屋には留まらずに教授室に逃げ出しただろう。
しかし、教授には「触るな」と言われたばかりだった。彼と2人きりになれば――まぁ、多分、この時間だと教授の秘書も出勤しているだろうが――触れたくて仕方がなくなるので、断腸の思いで遠慮することにした。昼食は一緒に摂りたかったが。
自分のデスクに座って指示書を読んでいると、山本センセと木村講師がこちらをちらちら見ながら小声で何かを話していることに気付く。星川ナースの件もまだ片付いていない。
手術スタッフの欄を見ると彼女も相変わらず道具出し担当だ。彼女の件を調べて貰っている杉田弁護士からの知らせが入るのは早くて水曜日だろう。あと数例は手術に彼女が加わるのは確実だ。何事もなければいいが…と懸念が深まった。
今日の手術は執刀医が香川教授、第一助手が祐樹で第二助手が柏木先生だ。彼の方をちらりと見ると、そろそろ手術室に向かう用意をしている感じだったので、祐樹もそれに従う。
手術室の隣のカンファレンス・ルームで待機していると、スタッフが続々と入室して来る。星川ナースには敵愾心も露わに睨みつけられた。が、予想していたことなので腹も立たない。かえって気を引き締めた。
手術30分前に教授が入室してくる。
いつもの彼と同じく涼しげで優雅な雰囲気だった。一斉に皆が挨拶する。それに頷きで返す教授だったが、祐樹の顔を見た一瞬だけ切なげな光を宿したのが印象的だった。慌ててそっと周囲を窺うが、気付いた者は居なかったようだ。
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