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第九章 第21話

「この指示書で疑問点は?また、こうした方がいいという意見があれば、参考にしたいのですが…」  手術スタッフが皆、首を横に振る。 「では、患者さんを手術室に搬送してください」  教授の指示でスタッフがそれぞれの持ち場に着く。  麻酔医が全身麻酔終了の報告をした。 「では、開胸」  その時、祐樹は彼の視線を感じた。手術が始まる時は、いつも彼の視線を感じていたが、今回の瞳は、いつもよりも深い感情が交錯しているようなとても綺麗な瞳だった。  手術用のマスクのせいで、顔全体が見えない――といってもこれは毎回のことだが――彼は身体だけでなく顔全体も祐樹の好みだ。ずっと観賞していたくなるほど。  手術中は当たり前のことだが、目だけしか見ることが出来ない。他のパーツが見られないのはとても残念だが、その分、澄み切った瞳だけを観賞出来る。今までよりも艶っぽさが増していると思うのは祐樹の気のせいだろうか?いや、多分気のせいではないだろう。ホテルで感じた何気ない指の動きすら匂うような動作になった彼のことだ。  そんなことを考えていたのは一瞬で、手術に集中する。 「クーパー」  彼の涼しげな声だけが手術室に響き渡る。  教授は星川看護士に合わせて手術道具をしっかり受け取っていた。  変だな…と思ったのは、手術が始まってしばらくした時だった。  手術中の教授は天才的な芸術家のように細い指を動かしている。その動きは一切無駄がない。多分、何事にも極めた人というのはこういう動きをするのだろうと思う。装飾を取り除いたシンプルでしなやかな動き。  手術の補佐をしながら微妙に道具出しの星川看護師の動きが祐樹の記憶にあるものと微妙に異なっていることに気付いた。  いつもは教授のテンポを崩すように道具を手渡している。今日は時々、無意識に違いないが、教授が望むタイミングで道具を出している?反射神経のままに?  祐樹は、第一助手の務めをつつがなく果たしながら、彼女を観察していた。  教授が彼女の方を見て指示する時は、彼女は反射神経で道具出しをしているようだ。そして、そのことに気付いたのか不本意な顔をして、わざとタイミングをずらしている。  第二助手の柏木先生を手が空いた時にちらっと見ると彼も不可解な顔をしている。やはり彼も同じことを感じたのだろう…。  ただ教授は星川看護師の作為のある、タイミングのずらし方を確率計算で次の行動を読んでいる。変数が入れば、マズい…。  そう思った祐樹の心が届いたのだろうか?いや、敏い彼のことだ自分で気付いたのだろう。彼は星川看護師の方を見ずに必要な道具を指示するように変えたようだった。  これだと教授の計算通りに行くはずだ・・・と安堵する。  案の定、手術はつつがなく終り、患者さんの心臓が再び拍動を取り戻す。  手術室には安堵と歓喜の雰囲気が満ち溢れている。  第一助手として、まず挨拶をしても良かったのだが、あまり病院内で、それもたくさんの人間の前で彼に近付くのは止めようと決意した。2人の関係――といっても祐樹はまだ教授と付き合っていると断言出来る自信は無かったが、肉体関係にあるのは事実だ――が何かの拍子に露呈しないとも限らない。  他のスタッフから「おめでとうございます」と言われているのを少し離れた場所から見ていた。  笑顔で挨拶を受けていた彼の瞳が自分の視線と絡まりあう。 『後で教授室に行きますよ』というメッセージを視線に乗せて送ったが、届いているかどうかは分からなかった。彼の視線を外し、柏木先生のところに行った。彼の涼やかな瞳を背中に感じてはいたが。 「お疲れ。更衣室に行くが、一緒にどうだ?」 「お疲れ様です。もちろん喜んで」  手術室に隣接しているシャワーを浴びてワイシャツとネクタイ、そして白衣に着替える間に柏木先生と話す。 「今日の手術…星川看護師が少し変でしたよね」 「ああ、そうだな。彼女の道具出しは佐々木前教授の手術時代から見ているが、あの頃はずっとあんな感じの小気味よい動きをしていた…」 「改心した…ということはないですよね…」  疑問ではなく確認だった。もし、彼女が改心したならずっと香川教授のテンポに付いて行く筈だろうから…。 「彼女は教授の瞳を見た時だけ、本来の反射神経で動いていたな…」  祐樹もそれは感じていた。当然のことながら第一助手よりも第二助手の方が業務量は少ない。柏木先生はじっくりと観察していたとみえる。 「しかし、何故?」 「気付かなかったか?今朝教授と会った時、雰囲気が随分変わっているのを見て驚いた。特に瞳だな…」  柏木先生は祐樹が何を賭けてもいいが異性愛者だ。同性を愛でる趣味などないと祐樹の長年のカンで分かる。 「そうですか?何が変わりましたか」  確実に教授に変化が起こっているならそれは先週末に2人で過ごしたホテルでの行為のせいだろう。異性愛者から見ても変わった…と言われると興味がわく。 「瞳の光が何とも言い様がない迫力だった。威圧感…いや違うな…何か引き込まれるような感じで…それと昔から何が有っても動揺しない目をしていたが、今日の教授は何が有っても揺るぎない覚悟を決めた人のような潔い目をしていたな…。それで星川看護師も調子が狂ったに違いない。女性から見るとまた違った感想を持つような瞳が印象的だった」  二晩の交情でそんなにも変わるのだろうか?と思ったが、教授の変化は祐樹以外の人間にも分かるらしい。理由までは分からないだろうが…。  すっかり身支度を整え、柏木先生と別れると祐樹は教授室へ行く前に昼食を仕入れに行くことにした。  今夜は地獄の救急救命室勤務だ。せっかく彼が部屋に居るというのに、病院泊まりは正直、残念だが仕方ない。その辺のことも報告しなければならなかったので。

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