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第九章 第22話

 今のところ、祐樹は救急救命室の勤務があるので本来の職場である心臓外科の受け持ち患者さんは1人という体たらくだ。  と言っても研修医ならそれ位が当たり前で、それも指導医(オーベン)の綿密なチェックが入る。常識では研修医のオーベンは先輩医師だが、祐樹は黒木准教授に目を掛けてもらっていたので、香川教授が赴任する以前も黒木准教授がオーベンだったが…。それでも破格の扱いだったのに、今回からは香川教授がオーベンをして下さるという…。これも医局から白眼視されてもおかしくはない理由の一つだ。  祐樹自身は教授に対してはっきりと恋愛感情を自覚しているが…彼はどうなのだろうか?という不安が渦巻いている。  香川教授がオーベンを買って出てくれた件にしても「医師としての自分」にのみ期待されて――それだけでも十分身に余る光栄ではあるが――のことだとも考えられる。医師としてはかなり期待されているのは分かってきた。最初は左遷か嫌がらせのために救急救命室に行くようにと命じられたのかと疑っていたが、救急救命室では随分医師としてのキャリアを積ませてもらった。  特にメス捌きは格段に上手くなったと自負している。心臓外科なら研修医にメスを持たせることは有り得ないので。今は香川教授が祐樹のためを思って救急救命室に出向を命じたことは確信出来た。  しかし、プライベートではどのように思われているのか分からないのが不安の種だ。  いつも昼食を買いに行くコンビニの前にナース達が数人立ち話をしているのが見えた。ナースも時間に追われている点では医師と同じだ。コンビニで昼食を買う時はさっさとサンドイッチなりお弁当なりを買って中庭やナースの控え室などで食べるのが普通だ。コンビニの前で立ち話をするということはあまりない。不思議に思って視線を投げると、彼女達の中に見知った顔が有った。が、どうしても名前は思い出せない。患者さんの顔は絶対忘れないのに…。 「田中先生も買出しですか?」  案の定彼女は声をかけてきた。4人のナースの顔は全てはしゃいでいる顔つきだった。病院から少し離れているので職場から離れたという解放感があるのだろう。 「今から昼食を買って…それから患者さんの見回りをしてから救急救命室ですね。何か良いことでもあった?」 「先生だから話します。だって、先生はあまり人のウワサをしない方だから… 先生も心臓外科ですよね?心外の香川教授、雲の上の人ですけど…何だか、今朝ちらっとお目にかかった時に――何だかゾクっときちゃう魅力を感じました…ね?」 後の三人が一斉に頷く。どうやら彼女達も香川教授の変化に敏感に反応していたらしい。 「以前からカッコいいな…とは思ってたんですけど…長岡先生という婚約者もいらっしゃるし、それに少し冷たい感じがして…でも、今朝の教授は冷たい感じは冷たい感じなんですけど、何か目が離せなくなるような冷たい感じなんです」 「あれかな?冷たい感じっていうのは前は氷みたいだったけど、今朝はダイアモンドみたいって感じ?」 「そうそう、そんな感じ。ツイ見とれてしまうのよね~!玉砕覚悟でコクってみたいと思わせるような」  祐樹が黙って聞いているので、何だか彼女たちの「香川教授の魅力について」の討論会のようになっていた。内心はとてもとても複雑だった。彼は女性には興味は全くなさそうだが。ノーマルの柏木先生も香川教授の変化について言及していた。祐樹のような性癖を持つ男性ならば、絶対食指を動かすに違いない。何とかしなければと切実に思った。 「あ、でも、田中先生もカッコいいですよ」  祐樹が居ることにやっと気付いたのかフォローが入る。苦笑して挨拶をし――ナースに嫌われるとロクなコトにはならない――その場を離れた。  彼のためにサラダとなるべくヘルシーそうなお弁当を選ぶ。ついでに貧血対策のサプリメントも。祐樹自身は適当に目についたお弁当を選んだ。  それらを持って教授室へ行くことにした。そういえば…携帯電話の番号はプライベートでは祐樹にしか教えていない…と言っていた。ならば、携帯にかけてみるのも良いかもしれないな…と思った。  自分の携帯電話を取り出し、彼の番号を押した。コール二回目で彼の声が聞こえた。 「祐樹か?」  彼の声が弾んでいる。ただそれだけのことで、そんな些細なことで嬉しくなる。  祐樹と同じく彼は携帯電話の番号登録を敢えてしていないと言っていた。となると、彼の携帯電話のディスプレイには電話番号だけが表示されていたハズだ。携帯番号を覚えていなければ、こちらの声を聞く前に名前を呼べるハズがない。それをコール二回でしてくれたのだと分かると不覚にも胸が熱くなった。「祐樹」と呼びかけたのだから、彼の秘書はランチに出かけたに違いない。少しの間だけでも2人きりになれる。 「昼御飯…何か用意されましたか?」 「いや、手術が終わった時に祐樹が『昼食を用意するから』という目をしたような気がしたので…用意していないのだが…」  一瞬に込めた瞳の光でそこまで読み取ってくれたのだと思うとたまらなく愛しい。 「ええ、食事は買いました。秘書はランチですよね?2人きりで食べましょう。あと5分程度で参りますから」 「待っている…」  携帯をポケットに入れると先ほどよりも急ぎ足で教授室に向かった。目指す部屋の前で、一応は名前を名乗る。誰かが訪れていないとも限らない。 「どうぞ」  その声に、丁重にドアを開けた。教授は応接セットから立ち上がったところだった。後ろ手にドアを閉め、ついでに鍵を掛ける。  彼の顔は、皆が噂をしていた通りいつもよりもっと祐樹を惹き付ける磁力が有るようだった。コンビニの紙袋を応接机に置いてから、彼の手を優しく掴んでこちらを向かせる。 「何だ?」  祐樹の瞳を見て不思議そうに聞いて来る教授に言った。 「キス…したいです」 「ここで?」 「ええ、確か鎖骨より下は触るなと仰っていましたが、鎖骨より上です」 「しかし…」 「嫌…ですか?」  彼は考え込むように少し俯く。長い睫毛が影を作っていた。

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