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第九章 第23話

 しばらくの間彼の顔を見詰めていた。確かに、柏木先生が指摘したり、ナース達が噂をしたりするのも尤もだと思わせる艶がある。  しかし、どうして一回目の逢瀬――と言っていいのかはナゾだが――の時も自分達はそういう関係になった…それなのに、二回目でこんなに匂いやかに香り立つ清清しい魅力を纏うようになったのは何故だろうな…と思う。  彼が決然とした表情で顔を上げた。目蓋の上がほんのり紅い。 「祐樹が望むのなら…」 ――他の人間を見ないで下さい――  そう懇願したかったが、唇は勝手に言葉を紡ぎ出していた。 「もう『グレイス』には行かないで下さい」  祐樹や教授の件でもお世話になっている杉田弁護士の常連のゲイ・バーの名前だ。こんな教授を1人であんな危険な場所に行かせると、祐樹こそが香川教授の手術のお世話になりそうだった。それほど心臓に悪い。  唇を至近距離に近づけた時に、教授の薄桃色の唇が動いた。 「『グレイス』に行ったのは…手術のことを1人で懊悩していて…飲める場所をあまり知らないし…あそこなら知った顔に会わないと思ったからで…。祐樹が居てくれるなら…絶対に行かないから…」  真剣な顔で断言する彼に少し安堵する。  彼の幾分細い腰を左手で抱いて、右手で彼の手を握る。しっかりと握った手を彼は嬉しそうに見てから、目を閉じた。  唇の表面を重ね合わせる。それだけで満足しようと思っていたのに、彼の唇の気持ちよさがとても気持ちが良くて…。ー  握った手の力を少し緩めて五本の指で彼の指の付け根を優しくなぞる。付け根は皮膚が薄いので、彼も感じてくれたのだろう…背中がわずかに仰け反った。必然的に唇が離れる。  彼は、壁にかかった時計をチラリと見た。秘書が帰って来る時間を気にしているのだろう。こういう理性が好ましいが、憎らしくある。もっと溺れてくれればいいのに…という駄々っ子めいた感情を持て余す。 「舌をね、唇から少し出して下さい」  そう言うと彼は唇よりも少し紅い舌を出した。祐樹は彼の舌の縁を舌で辿っていく。  彼の背中が僅かに震え、唇で感じる吐息も熱を増す。 「同じように…して下さい」  彼は瞳の動きだけで了承を伝えた。その瞳の輝きにも魅了される。  お互いの舌をまさぐる水音が重厚な教授室に不似合いに響く。祐樹は目を開けて彼の匂い立つ表情を凝視したまま舌を絡めていたが、教授の方は恥ずかしそうに目を伏せていた。   が、時々祐樹の表情を探るように見る。彼の薄桃色の唇が2人分の唾液で濡れている。水気を含んだ果実のようだった。もっと別のもので汚したい欲望に駆られる。 「とても気持ちがいいです。聡はどうですか?」 「こんな感触は初めてで、とても…イイ」  初めて?彼の元恋人はアメリカ時代だろう…祐樹は外国人との経験はなかったが、アメリカ人の方がキスは巧みだろうと思っていた。こんなキスは彼にとって経験済みだとばかり思っていた。 「鎖骨までは許してくれるのですよね?私が付けた痕を見せて下さい」  このまま身体を密着していると祐樹自身も反応をしてしまう。それを危惧して身体を離した。が、彼の鎖骨に情痕を付けておけば、彼も他の人間に素肌を晒すことはないだろう。  彼は祐樹の舌を唇で強く吸う。これも二日間のホテルで祐樹が教えたことだ。それから少し身体を離して悩ましく震える白い指で白衣のボタンを外し、ネクタイを解いた。恥ずかしいのか目を伏せたままの表情は手折られるのを待っている咲きたての花のような風情で、思わずソファーに押し倒したくなる。  それをなけなしの理性で抑えて彼のしなやかな指先が繊細に動くさまを見詰めた。  白いワイシャツのボタンを外していく。4つ目のボタンを外し終えて、含羞を含んだ不安げに揺れる瞳で祐樹を見た。 ――白いシャツも絶品だが、彼に黒いシャツを纏わせてみたい――と不意に思った。  晒された素肌は薄い桃色をしていたので、黒い色の衣服はもっと映えるハズなので。  鎖骨の上には綺麗な紅色の情痕が花開いている。シャツで見え隠れする彼の胸の尖りも艶かしい。ソコに唇を落としたかったが、約束は約束だ…断腸の思いで鎖骨の花弁を大きくするように思いっきり吸引する。  首筋に回していた祐樹の掌に彼の汗を感じる。幾分細い肢体が大きく震えている。彼の手は祐樹の頭部を支えにしていたが、その手にも力が入る。頭皮を強い力でマッサージするように動く彼の手がとても心地よかった。  存分に彼の少し汗ばんはいるもののサラリとした感触の上気した肌を唇と目で愛でた後、名残惜しげに身体を離す。そろそろ秘書が帰ってくるだろう時間だったので。  そっとソファーに彼を座らせた。身体が弛緩した彼に代わってワイシャツとネクタイを整える。服を着ていれば何も分からないように。 「今夜なのですが…救急救命室がとても人手不足なようなので…残念ながら帰宅出来そうにありません」  乱れた息を整えた教授は祐樹に視線を当てる。その仕草と視線も磁石のように祐樹を虜にする。彼は床に視線を落として幾分力のない声で言った。 「……そうか…しかし、私は祐樹の家に居ていいのだな?」 「それはもちろんです。但し、ちゃんと食事をして、睡眠を取ることが条件ですが…」 「それは、約束する。だが、私は祐樹のベッドに寝ていいのだろうか?」  その言葉に唖然とした。祐樹の部屋は学生時代から住んでいる狭いマンションだ。ベッドに寝なければ、他に横になれるところは床しかない。しかもフローリングだ。ベットに寝るのは当たり前ではないのか…? 「何故、そんなことを?」 「ベッドの主が居ないベッドを占領するのは気が引ける…」  律儀だとは思っていたが、ここまでとは…。 「絶対、ベッドで寝て下さい。替えのシーツはベッド横のクローゼット…一番下の引き出しに確か入っていますから。浴槽も使って暖まってから寝て下さい」  何だか、留守をする母親になったような気がした。といっても教授の発言は遠慮から来ているのは分かっていたが。

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