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第九章 第24話
「分かった。引き出しは勝手に開けて構わないの…か?」
前に「勝手に使って下さい」と言っていたにも関わらず、確認してくる彼の瞳が余りに真剣な光を湛えているので、こちらも真摯に対応してしまった。
「ええ、別に見られて困るような物は入っていませんから」
以前もそう言ったハズで、記憶力も良い筈の彼がもう一度同じことを聞いてくるのは珍しい。彼自身の几帳面な性格からすると、自分がされて嫌なことでも有ったのではないかと疑いたくもなった。アメリカ時代には多分、恋人と棲んでいた経験があるのだから…。
「もしかして、教授がされて嫌だった経験があるとか?」
彼は一瞬考えるように目を伏せる。この手のことを聞くといつも目を伏せるな…と思った。何を考えているのかじっくりと聞き質したい欲求に駆られる。決して野次馬的な好奇心からではなく、彼の内面が知りたいという純粋な恋情からだ。
「いや、別に…そういった経験はないが…。ただ、他人に家をかき回されるのは祐樹が嫌ではないかと…そう思ったから…」
「他人」という言い方に胸の奥がチクリと痛んだ。やはり、教授にとっての自分は「他人」なのだと。
「貴方は『他人』にああいうコトまでさせるのですか?」
抑えようと思ってもついつい声が低くなる。
「『ああいうコト』…?」
鸚鵡返しに呟いた教授は彼にしては珍しく祐樹が何を言い出したのか分からないといった曖昧な表情だった。いつもは明晰な頭脳の回転を思わせる彼だが、こういう方面では鈍い…と、余計に腹が立つ。
「あのホテルで…の件です…よ。アレコレ…色々と…しましたよね…」
そう囁くように言うと彼の顔が即座に紅潮する。やっと祐樹の意図が分かったようだ。
「あれは…」
そこから言葉を探すように唇が空回りしている。
「そういう意味で『他人』と言ったわけではなく…私も祐樹も1人暮らしが長いので……自分なりの生活習慣が出来上がっていると…そう思って…」
ああ、そうだったな…と思う。彼の両親はもう既に亡くなっていて、1人暮らしが長かったと聞いていたのを思い出した。が、それは祐樹も殆ど同じ状況で…大学時代からの1人暮らしだ。ただ、祐樹は教授と違って、付き合った人間を自分の部屋に入れたことはない。
そういえば、教授が部屋に入れた初めての人なのだな…と今更ながらしみじみと思い返す。そういえば、自分のテリトリーに赤の他人――と言っても好きな相手だが――を入れる気にはなれなかったのに、気がつくと教授には許してしまっている。
教授の体調不良が原因だったにせよ、祐樹が部屋に入れたくないと言えば、教授は簡単に引き下がるような気がした。だが、教授を部屋に入れることへの抵抗感は皆無だった。あまつさえ、初めての料理まで振舞ってしまって…。最初の鍋料理は自分でも散々の出来だったと胸を張って断言出来る、情けないが。
その後、料理の本を買って作ってみようと思ったのも自然と思い立った。
今までの恋愛遍歴は所詮、自分が面白がっていただけなのかもしれない。
そう実感した。
そうでなければ、祐樹だって教授には及ばないがかなりの激務だ。血の繋がりのある――現在は田舎の病院に入院中の母にならともかく――教授のために時間を割くのは、やはり彼のことが心底心配だったに違いなと今更ながらの自己分析をしていた。
彼が静かで激しい決意を秘めた光を宿した瞳でこちらを見た。唇を噛み締めている。
――…一体何を言い出すのだろうか?――
固唾を飲んで彼の薄い唇と、いつもよりもまなじりを決した綺麗な瞳をただ、見つめていた。
「『他人』と言ったのは…血のつながりのないという意味で・・・それ以外の含みはない。それに私は…」
応接室のソファーに腰を掛けている教授は、掌を自分の膝の辺りに行儀よく置いている。その手の指が神経質に震えているのが目に入った。
教授とそういう関係になる前は、よく彼はこうして手を震わせていたな…と思う。
秘書がランチタイムから帰ってくるのを懸念して向かい合って座っていたが、そっと立ち上がり、彼の隣に座った。そして、彼の白い指を恭しく持ち上げた。手の甲に接吻したいと思ったが、ガラでもないような気がして…白い指先を口に持って行った。彼の表情を見ると安らかな瞳で祐樹の一挙一動を見守っている。こういう時の彼の顔は、甘い顔立ちも相俟って守ってやらなくては…という庇護欲に駆られる。
祐樹が指に触れた途端、彼の神経から来る震えは治まっていた。
白い指と、――几帳面に短くは切られていたが――形の良い爪から透けて見える薄紅色の皮膚が綺麗だった。彼の瞳を覗きながら指先を舐めた。指を含む手の神経はとても敏感だ。教授の瞳に拒絶の色がないのを良いことに右手中指――基本的に利き腕の方が神経は敏感だ――を唇で挟んで、手術の前にする「手洗い」の要領で先端から上部へと唇と舌を使って愛撫した。特に皮膚が薄いところは念入りに…その舌を使う音が教授に他の行為を連想させたのだろう、彼は左手で祐樹の背中に縋りついた。そうすれば聞こえなくなると思っているかのように。指の付け根を順番に舌と唇でねっとりと触れる度に、彼の右手はもう、祐樹にとっては馴染みのある教授の快感の震えに変化していくのを満足して感じていた。もう耐え切れなくなったのか、白衣の背中に皺が寄るほど強く抱き締められた。
赤く紅潮した指が祐樹の唾液で濡れているのもそそられる。
彼が小さな、あるかなきかの声で言う。
「感じる…から、止めて…欲しい。『他人』と言って悪かった。私は…そんな積りで言ったわけでは…つまり…だから…」
吐息も熱をはらんでいる。彼の言葉を聞きたかったので彼の短い爪にキスをして身体を少し離した。教授の考えが聞ける…と思うと、楽しみなような怖いような複雑な甘さが背筋を這い上って行くのが分かった。
が、その時、隣室の秘書控え室の扉が開き、教授秘書が勤務に戻ったのが分かった。
「ああ、もう五分でいいから、ランチタイムを伸ばしてくれれば良かったのに・・・」
彼にそう囁くと、身体を離して向かいに座る。祐樹は部屋に置いてあったテッシュの箱を引き寄せ教授の指を拭きとっていた。
「大丈夫ですか?少し切っただけなので、後で消毒薬をお持ちします」
もちろん、彼は怪我などしていない。秘書に聞かせるための口実だった。
遠慮がちなノックをして秘書が入室を求めてくる。
「いや、こちらは構わなくていいから…先ほどお願いした書類の整理をお願いします」
そう言って、秘書を退けた教授の瞳は感じたせいか涙の膜を張っていて水晶を思わせた。
が、隣室とは言え、秘書が居る場所で彼は本心を吐露しないだろう。心残りが募った。
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