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第十章 第1話

「教授、手術のスケジュールは、従来の一日二例から、当分の間、一例にしませんか?」  秘書の手前もあり、沸騰しそうな頭を理性で冷やしながら仕事の話をする。   教授は不本意そうに眉を顰めた。祐樹は昼御飯を食べ始める。教授もそれに倣ってくれたのが内心嬉しかった。 「もう体調は大丈夫だ。患者さんにもこれ以上迷惑はかけられないし、スタッフも混乱するだろう」  祐樹が買ってきたコンビニのお弁当とサラダを正しい箸使いで食べながら教授は静謐な怒りの口調で言った。 「ええ、教授の体調は承知しています。先ほどから拝見していますが、食欲も戻ったようですし…。ただ、例の件が片付くまでは、緊急の患者さんに対して最大の注意を払って手術をする…となると、体力や精神力が有り余っている状態の方がベストです。それに、私の記憶が正しければ…手術予定の患者さんの中で、以前教授が『緊急に手術が必要』と書かれていたリストに書かれた患者さんの手術は全て終わっています。これなら少しくらいペースを落としても、教授の仰る『患者さんへの迷惑』はそんなに掛からないと愚考するのですが…」  彼はしばらく白い指を眉間に当てて考えていたが、低い声で言った。先ほどの怒りの風情はなくなっている。 「今日の手術は、今までの例の人…道具出しのタイミングの確率からは外れた行動が目立った。何とかしのいできたが・・・。何か変数でも入ったに違いない。しかし、変数とは何だろうか…。計算が狂うことおびただしい…な」  変数は貴方の変化ですよと教えてやりたかったが、もちろん教えない。ナース達の反応も。 「そう考えると、ゆ…田中先生の言う通りにした方が良い。早速黒木准教授を呼んでそう伝えよう」 「ええ、その方が良いと思います。私も杉田先生の方をせっついてみますから」  秘書が聞いているかも知れないので、二人とも注意深く話している。杉田弁護士と表現するところをワザと「先生」にした。こうすれば秘書は医師の1人だと思ってくれるだろう。 「宜しく頼む。田中君のこれからの業務は?」 「鈴木さんのムンテラ(病状説明と聞き取り)です。彼は手術を望んでいませんから…」 「データを長岡先生にも見せた。内科の内田講師の投薬には感心していた。『一度、ゆっくりお話ししてみたいです』と伝えてくれと言っていた」  長岡先生は医師として優秀なのは認めるが、それ以外は行動が素っ頓狂な女性なので――勘違いなどが多そうだ。――祐樹としては避けたい女性だな…と思った瞬間、教授の言葉が脳裏に蘇る。 『長岡先生には自分の初恋の相手を仄めかしたことがある』  今まではすれ違いで長岡先生と会う機会はなかった。だからイキナリ、「教授の好きだった人について知っていることがあれば教えて欲しい」など聞けるわけもない。だが、内科の内田講師を紹介することによって長岡先生との接点が深まれば、それとなく聞く機会も出来るかも知れない。 「そうですね。内田先生はちょくちょく病室に来られているようですから…お会いした時に長岡先生の伝言を伝えます」 「ああ、宜しくお願いする。で、ムンテラの後は?」 「他の先生の手伝いをと…」 「救急救命室に行く前に…か?」 「そうです」  さっきまでの匂うような艶の残り香はまだ残っていたが、明晰な言葉遣いと仕事モードの表情だった。 「田中先生、何か忘れていないか?鈴木さんレポートの提出期限は今日までだ」  え?と思う。そんなレポートを作成しろと命令された覚えは記憶のどこを探っても見当たらない。  怪訝な表情をする祐樹を悪戯っぽい笑顔の教授が見ている。箸を置いて、人差し指――先ほど祐樹が口に含んだ方の指だ――を彼の薄い唇に当てて、「黙っていろ」というゼスチャーをする。その後、その指を未練げに数秒眺めた後で秘書室を指差した。  ああ、そういうことか…と思って、祐樹も調子を合わせる。 「すみません。日にちを勘違いしていました。レポートは出来ているのでお届けします。何時頃がお手すきですか?」 「私は今日は手術がないので、頼まれていた医学雑誌に載せる短い論文作成の予定だ。それが終るのは…そうだな…5時くらいか…」  論文作成が本当のことかどうかは分からなかったが、手術が無くて時間が空いているのは本当だ。5時という時間も秘書が業務を終える時間だ。その時に先ほど聞き損ねた彼の本音が聞けるのだろうか? 「分かりました。では、5時半にお伺いするということで宜しいでしょうか?ご指導ご鞭撻を宜しくお願い致します」  調子を合わせた祐樹に、彼の笑顔が一層深まる。少し細めた瞳の光が柔らかだ。出来ればこんな顔をずっと観賞していたいな…と思わせる。  食事を終えて、後ろ髪を引かれながらも教授室を後にする。一旦は医局に戻らなければならないが、その前に杉田弁護士に電話を掛けてみようと、屋上に出た。裁判所に行ってなければいいが…と思ったが――詳しくは知らないが、普通、法廷で弁護人の仕事をしている時は常識として携帯電話の電源は切るだろう――取り敢えずは、事務所の方に電話をしようと思った。幸い杉田弁護士は事務所で仕事中だったようだ。事務所の女性事務員が出て杉田先生に繋いでくれた。 「進捗状況…か?金融機関などに問い合わせをすると、こちらも期限を切るが、あちらもその期限にしか返事をくれないのが現状だ。なので、水曜日か木曜日にならないと分からない。そういうものなのだ…焦る気持ちは痛いほど分かるが…」 「いえ、一応確かめてみたいと思いまして。有り難うございました」 「ところで…阿部師長からのメールが入ったんだ。大変だね、ああいう人と付き合うのは」  「大変」などと深刻そうに言っているが、好物のチーズを目の前にした猫のような楽しげな口調だった。 「何ですか?それは…?」  話したがっている様子の先方はどうやら急ぎの仕事がないようだ。こちらも弱みを握られている杉田弁護士・阿部師長ラインには逆らえない。話をじっくり聞くことにした。幸い屋上には人気はない。

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