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第十二章 第4話
バスしか通れない道路を親切な運転手さんは走行し、切符売り場の一番近いところで切符を買って改札口を通ると、階段を駆け上がる。背後ではバスと思しいクラクションの嵐だったが。
この駅は高架になっていて、一度階段を上がり、目的方面のホームで階段を下りるという仕組みだ。
日ごろ階段や廊下を走り回っているせいで、走ることは全く苦ではない。職業柄自然に鍛えられた。研修医はホントに楽ではないが、こういう時は助かる。チラリと後ろを向くが、祐樹しか走っている人間は居なかった。
駅のデジタル時計を見るとあと一分で発車だ。これで尾行は完全に撒けただろうとほくそえんだ。祐樹が乗ろうと思っていた快速急行に乗った瞬間、ドアが閉まり発車した。
――自分の後に列車に乗り込んで来た人間は見たところ居ないことは断言できる。完璧に撒けただろう――
尾行しているのはタクシーの運転手の言葉を信じれば(疑う理由はないが)興信所の人間だと言う。そんな心当たりは1つしかない。星川ナースが香川教授の手術から外され手術の妨害が出来なくなったことに焦った敵方の反撃だろう。
そうなれば、執刀医である香川教授はもちろんのこと、柏木先生も――祐樹に託された文章の件までは敵方にまさか漏れていないとは思うが――危険だ。特に柏木先生は敵方である反香川教授のグループに一時的にとはいえ所属していた。車内の人の迷惑にならないように席を立ち、連結部分の近くに行って柏木先生の携帯番号のメモリーを呼び出す。彼に掛けるとすぐに繋がった。物を咀嚼しているような感じだったので、夕食時だったのだな……と思う。仕事熱心な彼はもしかしたらこれから再び仕事場に戻るつもりなのかもしれない。
「田中ですが……少し込み入ったお話が……、出来れば他人が聞いていないところで……」
自分では普段と同じように話していたつもりでも、切羽詰った声を出していたのだろうか?
「分かった。今は電車の中だな。では、三分後に公園の中から掛けなおす」
彼は祐樹の携帯から流れる電車特有の音で判断したのだろう……。
公園?と思ったが。柏木先生は病院の近くの定食屋か何かに居たのだろう。祐樹に取っても馴染みのある場所だ。公園は1つしかない。児童が安心して遊べるように作ってある、ありきたりの公園だ。ジャングルジムに滑り台、砂場にベンチといったものしか置かれていない。ということは逆に会話を他人に聞かれる可能性が少ない場所でもある。隠れる場所がそもそもないのだから。
夕方、まだ早い時間だが、公園で遊ぶ子供たちはもう家に帰る時間だろうし、デートの余韻を引き摺ったカップルが話しこむには早い時間だ。そういうことを咄嗟に判断して場所を決める柏木先生の鋭さには舌を巻いた。実は、祐樹の隠れ喫煙所でもあるが。
イライラして携帯の液晶に表示される時計を見ていると柏木先生からの着信があった。
「何が有った?」
単刀直入に聞かれた。が、そうされることで話しやすくなる。多分自分が尾行されていること、私生活でそんなことをされそうな覚えはないことからも職場関係かと思われることを手短に話した。
「それは露骨な香川教授降ろしだな……星川ナースの件で手術の失敗はなくなったから次の手を打ったということだろう。田中先生のプライベートは知らないが……付け込まれる隙は作るなよ。俺の方は先ほどから後ろを注意してこの場所まで来たが、尾行の影はない・・・…と思われる。注意はするが。親香川教授派は狙われやすいと思われる。くれぐれも足元をすくわれないように身辺には注意するんだな……」
憤怒のあまり舌打ちでもしそうな柏木先生の声だった。不思議なもので相手がより怒ると自分は何故か冷静になれる。そんなものだと学生時代にかじった心理学を思い出す。
「黒木准教授は大丈夫なのでしょうか?」
言ってみてから祐樹は自分の間抜けさ加減に嫌気がさす。黒木准教授は今でこそ親香川教授だが、もし、香川教授に何かが有ったら次に教授になるのは黒木准教授が本命だ。それこそが敵方の狙いならば、黒木准教授の意思がどうであれ准教授は狙わないだろう。
「はは、田中先生も鈍くなったな…」
「そうですね。すみません。生まれて初めて尾行というものをされて……平常心が欠けていたようです」
「俺はキチンと注意している。が、俺の見るところ一番危ないのは田中先生だ。今日の手術室の一件は、手術室のナース長の清瀬さんがどんなに緘口令を敷いても顛末は既に病院のスタッフ中を駆け巡っていた。香川教授の驚愕ぶりも……な。あの人は普段手術中に喜怒哀楽を出さない外科医ということで有名だったんだ。それが香川チームの一員でも前代未聞のあの狼狽ぶりだろう?敵方が香川教授と田中先生を狙ったとしても俺は全く驚かない」
――「その」香川教授と今から密会をする祐樹はどうしていいか途方に暮れる。しかも祐樹は現在、香川教授と一緒に祐樹の部屋で暮らしているのだから――。
尾行を一回でもされたら疑心暗鬼に陥ってしまう。柏木先生と話している間もさりげなく辺りを見回すがこちらに注目している人間はいなかった。そして、顔を隠している人間も。タクシーの運転手さんの機転で、京都駅で撒いたと見るのが自然だろう。自動車は便利だが小回りは効き難い。
車内では携帯の画面を眺めているフリをして、いろいろ目を配ってみたが、祐樹に注目している不審な者は居ない。チラチラと見ている女性は居たが監視しているといった感じでもない。それに彼女達は主婦らしい格好をしていたり、会社帰りのOLといったりした風体だ。それに視線が合えば、頬を赤らめて俯くか、にっこりと笑いかけてくる。祐樹を見た女性にありがちなリアクションなので不審な点はない。
まさか興信所の調査員がそんなことをしないだろうと思っていると、彼女達は列車が停まる度に降りていった。
電車での移動は――特にJ○のように路線が長いのでどこの駅で降りるかは予測することが難しい。その点では今回の尾行は撒けたと考えていいだろう。
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