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第十二章 第5話

 大阪駅で下車した。いつもより急ぎ足で例のホテルに着く。もちろん尾行されている気配はないかシロウトなりにチェックはしたが。ホテルに入る時もさりげなく左右を確かめた。ちなみにこのホテルの入り口は祐樹が知っているホテルの中では狭い方なので、監視はしにくいだろう。また、このホテルを使っていることは祐樹はもちろん教授も誰にも言ってはいないだろう、密会用のホテルなだけに。  ちょうど前を歩いていたホテルのスタッフに「クラブフロア宿泊予定者です」と小さな声で告げると、彼は専用のキーを取り出し、先にエレベーターに乗ってくれた。他に客は居ない。エレベーターは一度も停まることなくクラブフロアラウンジまで上がっていった。  エレベーターを降りると、ホテルマンに黙礼しクラブフロアにまっしぐらに向かった。  彼が気に入っているいつもの席に静謐な雰囲気を醸し出して座っていることを確認して、心の底から安堵の溜め息が漏れた。  彼は祐樹の心中を察することなど出来るハズもなく、いつものように花が綻ぶような微笑を送ってきた。   手には書類をクリップ留めしたものを持っている。何か読み物をしていたようだった。 「お待たせしましたか?」 「いや、私も今来たところだ」  祐樹の顔を少し不審そうに見る。さぞかし自分は余裕のない顔をしているのだろうなと思ったのだが。  彼の視線は祐樹の包帯に下がり心配そうに見詰めている。つい先ほど彼も到着したというのは間違いなさそうだ。彼の前に置かれたアイスコーヒーもそれほど減っていないし、グラスの外に付く結露も注がれてすぐの状態を保っている。  瞬時のうちに計算した。  彼は星川ナースの件でさぞかし落ち着かないだろう。医局の不満分子が祐樹だけにターゲットを絞っているのなら、今は祐樹が尾行されたかもしれないことは黙っておこう。  全ての件は明日以降に持ち越そう、と。それまではいつもどおりに振舞おうと。 「チェック・インはもう済ませましたか?」 「祐樹が何時来るか分からなかったので、少し待って貰っている」  顔見知りになった女性スタッフが飲み物の注文を聞きに来た。この女性は確か、香川教授の顔に見惚れていた女性だったな……と思い出す。あの時は少し不愉快だったが、この場合は都合が良い。 「教授は、J◯で来られましたか?」 「いや……北教授と彼の執務室で話している時に、教授が『これから大阪でシンポジウムの講師をする』と仰っていた……もう少し相談したいことがあったので、その車に同乗させてもらったのだが?」  何故そんなことを聞かれるのか分からないという顔をしながらも彼は答えた。そういえば、彼は祐樹に向かって「何故」とか「どうして」といった質問をすることが極端に少ないな・・・…とフト思う。 「祐樹、その怪我……本当に申し訳なかった」  そう言って端正な表情に罪悪感を刻んだまま律儀に頭を下げる。祐樹の内心では――もういいのに――と思ったが。この際だ、その気持ちに付け込ませて貰おうと企んだ。 「貴方がそんなに罪悪感を感じる必要はないんですよ。しかし、それでは気が済まないでしょうから……私の言うことに3つほど従ってもらいます。但し、質問はなしで」 「分かった……。3つだけでいいのか?」  幾分表情に明るさが戻った彼はそんなことを聞いてくる。3つでは少なすぎたのだろうか?祐樹には良く分からない思考回路だ。 「では1つ目です。途中の車の中ではずっと北教授と書類の検討をなさっていたのですか?」  教授は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔――それでもその驚愕の表情は何ともいえない風情があって新鮮だった――をしていたが、正直に答えてくれた。 「私はそのつもりだったのだが、北教授は車酔いのするタイプで、車内では字を読めないことが分かってからは、外の景色を眺めていたな」 「景色だけですか?後ろを振り返ったりはしませんでしたか?」 「振り返りはしなかったが、バックミラーの角度がちょうど良くて、後続車を眺めていた」  祐樹は心の中でビンゴと叫びたい気がした。彼の記憶力ならば、後続車の車体やナンバーも全て記憶しているハズだ。 「後続車に黒いセドリック――特に同じナンバープレートの――を見た覚えは?」  香川教授は記憶をスキャンするような目をして考えていたが、数秒後、祐樹に視線を合わせた。 「ない。黒いセドリックは3台見たが、こちらの車が高速道路の走行車線を走っている時に追い越していったのが1台。そして、途中の分岐点で別れた車と高速を下りた車の1台づつだった。何ならナンバーも言えるが?」  彼の驚異的な記憶力は十分知っているハズだったが。通りすがりの車をこれほどまでに覚えていたという事実に圧倒された。が、今のところは香川教授を尾行している人間はいないと考えていいのだろうか? 「質問その1……はこれで終わりです。次ですが、次からはお願いです。今からチェック・イン――それも今チェックインカウンターに座っている女性に微笑みかけて『今日のこのフロアの宿泊客に一見さんは居ますか?』と聞いて下さい。私も一緒に行きますけど。その時は極上の笑みを浮かべて下さいね」  途方に暮れた彼の表情を見て、要求が突飛過ぎたのか?と思った。 「極上の笑みというのは…どういう表情なのかが全く分からないのだが……」
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