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第十二章 第6話
冗談かと思ったが、彼の怜悧な顔は真面目な表情を浮かべている。いつも祐樹に向けている笑顔は極上の笑みだと思っていたのだが、本人は気付いていないらしい。やれやれと思いながらも、どこか嬉しかった。彼は無意識にあんな笑顔を祐樹に見せてくれていたのだから。
「では、私に向かって……そうですね。コトが終った時に見せるような笑顔を作ってみて下さい」
「こんな感じか?」
彼のもともと柔らかな感じを与える端整な顔が笑いを添えたことで薄紅色の薔薇のような微笑を浮かべている。
「そうです。その顔で、あの女性スタッフに尋ねてみて下さい」
祐樹も愛想の良い笑いは出来ることは出来るが、こんな一流ホテルで働くプロ中のプロの職務を一時的にせよ忘れさせたのは教授の以前の笑顔だけだった。
教授の笑顔を他の人間に向けさせるのは大変不本意だが、この非常時には仕方がないだろう。祐樹にはそれほどまでに魅力的な笑顔を作ることは不可能なのだから。
「今はその笑顔を私だけに見せて下さいね。そしてチェックインの手続きが終ったらその笑顔を作って『今日はこ…』」
「『このフロアの宿泊客に一見さんは居ますか?』と聞けば良いのだろう?」
「そうです。では、行きますよ」
彼は表情を引き締めてから祐樹の後ろに立って歩き出す。目当てはあの女性スタッフだ。こういうホテルは多分社員教育も徹底されているだろう。もう一人居た男性スタッフが他のゲストと話をし出したのを確認して、眼差しで促した。二人居れば、聞きたいことも同僚の耳を憚って言ってくれないと踏んでいた。
「チェックインをしたいのですが……」
そう言っていつものカードを取り出した彼の笑顔は祐樹が見る限りではどことなく不自然さは感じるものの、知らない人間が見れば天衣無縫の極上の笑みだ。
「畏まりました。こちらにサインを」
女性スタッフも営業用ではない上擦った声で対応しているようだ。
「今日はゲストの数が少ないですね……、その方が落ち着いていて好きですが。今の時期はあまり観光客が来ないのでしょうか?」
教授は祐樹の真意は分からないまでも、彼らしい察しの良さで不自然でない会話に持っていこうと努力しているようだった。
「そうでございますね。ゴールデンウイークも終わってしまいましたし、俗に申しますオフ・シーズンでございますので」
「このフロアの宿泊客に…今現在新規の客は居ますか?つまりは初めてのゲストという方は?」
彼女は一瞬、戸惑った顔を浮かべた。それはそうだろう。普通ホテルのスタッフにそんな質問をする客は居ない、警察関係者ならともかく。その沈黙を察して彼は笑みを深くした。横で見ている祐樹も息を飲むほどの笑顔だった。
「左様でございますね……本日はご常連のお客様ばかりでございます」
その笑顔に釣られたように彼女は心持ち声を低めて言った。
「やはり、そうでしたか……今日は特に雰囲気が良いと思ったのです。何だか落ち着いていて自分の家よりも寛いだ気分になれます。このホテルを愛好する者の一人としては好ましいです。内装とゲストがこのホテルの快適さを作り出しているのだと思います」
教授の優等生的な返答と笑顔に、彼女は営業上の仮面が少しずれてしまっているのか、頬を染めている。
新規の客が居ないということは、祐樹を尾行してきた黒いセドリックは完璧に撒けたのだろうかと思われる。それに教授にも尾行は付いていないということだろう。今日のところは……だが。
問題は祐樹の住所なども大学関係者なら誰でも調べられるということだ。
行動に尾行が付いているなら自宅のマンションも監視や盗聴の可能性も皆無というわけではないだろう。その時に彼が何故祐樹のマンションに居るのかという疑問が、調査を依頼した者には当然のように浮上してくる。
彼を遠ざけねばと思った。今日はこのホテルに泊まるから良いとして明日以降は教授を祐樹のマンションに帰らせてはならない。そうでないと彼にまで火の粉が降り掛かってしまう。
だが、彼には余計な心配をこれ以上かけさせたくはない。星川ナースの件がもう少しで分かるというのにこのタイミングでコトを起こす相手の真意がある意味怖いが、これも大学病院の陰湿さなのかもしれない。
いつの間にか大阪城を臨む教授お気に入りの席に着いていた。考えに沈んでいた祐樹は教授が心配そうに顔を覗き込んでいることにやっと気づく。
「どうか……したのか?いつもの祐樹と何か違っているのだが……」
無理に何でもないような笑顔を浮かべて返事をした。
「いえ、先ほどの笑顔、素敵でしたよ。演技も完璧でした。有難うございます」
彼の瞳の奥底に不安げな光を宿しているのは感じていた。が、今これ以上明かすと余計に彼を不安の海の中に突き落とすことになる。
「祐樹のリクエスト通りに出来たのだろうか……?」
「ええ、それはもちろんです」
「そうか……ならば、良い」
彼は少し唇を弛めて微笑を浮かべた。瞳の奥の光は依然として暗いままだったが。
「食事を取りそびれたので、軽食を取りに行きたいのだが、祐樹は何か必要なものは?」
クラブフロアラウンジの中央に軽食が所狭しと並んでいた。
「いえ、私は結構ですので。どうかお好きなものを。私はこのアイスコーヒーで十分です」
「……そうか。では行ってくる」
どこか悄然とした足取りが気になったが。
尾行者の気配など祐樹に取っては初めての経験で――と言っても普通に暮らしている人間なら誰でもそうだろうが――今日彼をここに誘った本来の目的をすっかり失念していた。
杉田弁護士のアドバイスを実践してみることだったのに。彼を惑乱の淵に溺れさせて本音を聞くという本来の目的があった。さて、こちらはどうしようか?と頭の芯が冴えたままで思いを巡らす。良い方法を思いついたと、内心でほくそえんだ。
職業柄かこういう時の思考の切り替えは早いほうだ。
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