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第十二章 第9話
予想だにしなかった彼の積極的な誘いに祐樹も次第に理性よりも本能が暴走し始める。
祐樹に尾行が付いたのは、どう記憶を解析しても今日からだ。それまでは怪しい自動車などは見なかったと断言出来る。教授ほどの記憶力はないが、祐樹も少しは自信があるので。
とすると、このホテルのクラブフロア――エレベーターは宿泊者でないと停止しないシステムだ――に新規のゲストが居ない以上このチャンスを措いてはこんな場所での行為は少なくとも当分出来ないということを意味する。
次の逢瀬の時に祐樹が尾行を撒くことに失敗してホテルまで付いて来られれば、とてもじゃないが、こんなところでの行為は尾行者とその後ろに居るハズの敵方にバレてしまうような行為は出来ない。今日しかチャンスはない。
普段は何気なく使用している清潔かつ優雅で上品な雰囲気を持った場所で、背徳感に塗れた行為をすることは、正直いつもよりも刺激が強い。
トイレのドアを開けて、他に人が居ないかどうか注意深く探る。
個室の扉は全て開いていた。
流石に一番人通りが多い、クラブフロアラウンジの階だけは彼の手を離したが。彼がそこに居るだけで、高原にでもいるような清涼感が漂う。場所を問わず。
「本当に良いのですか?貴方がほんの少しでも嫌だとお思いになられたのなら、部屋に行きますが……」
心配になって念を押してしまう。
「嫌では……ない」
明晰な口調だったが、どこかに色情の艶と、悲愴な決意とを滲ませた複雑な声だった。
トイレのドアから一番近い個室に入った。白い木目のドアを閉めると2人の間に快楽を期待する熱く湿った雰囲気が漂う。
彼をドアに凭れさせて、薄紅色の唇を重ねた。彼も祐樹の唇を待ち兼ねたかのように薄く唇を開いて、更に深い接吻を強請る。背中と首筋に細く白いがバネのような筋肉を持つ彼の腕が回った。
「祐樹?何か有ったのか?」
彼の深い眼差しに疑惑の念が少し浮かんでいる。
「どうして……そう思うのですか?」
「救急救命室でシャワーを浴びた後、新しいシャツに着替えた筈なのに……少し汗の香りがする……この薫風の季節に、しかもあの後は仕事で汗をかくことはなかった筈なのに?」
「しまった」と思う。そういえば尾行に気付いてから列車に乗るために走った。それに緊張のあまり背中に汗が伝ったこともあった。
「いえ、特には。貴方の気のせいでしょう。それとも、こっそりリネン室で洗濯をしてくれるナースが手抜きをしたのかも知れないです」
彼に心配を掛けるわけにはいかないので咄嗟の言い訳をする。そんな祐樹の瞳を凝視していた彼だったが。彼の表情が少し硬い。敏い彼にこれ以上言い訳をすると逆効果だと判断し、彼の思考をそちらに向かせないように企む。
再び唇を深く重ねた。その後、唇を少し離して、輪郭を舌で愛撫する。その感触が堪らないのか、彼も舌を慎ましく出して、祐樹の舌の感触を味わうように動く。
唇ではなくて、舌の戯れに没頭する。舌だけで触れ合っていると、繊細な快感が背筋を走る。彼も同じことを感じているのか、背中に回った手の指の力が強くはなるが、幽かな震えも感じる。
上品な調度で纏められた個室も2人が醸し出す雰囲気でどこか健康的な淫らな空気に染まっているようだった。
「ベルトを外して……その後はドアに縋っていて下さい」
欲情に掠れた囁きを彼の薄い桃色に染まった耳元に落とす。ついでに耳たぶ全体を口で包み込み、僅かに歯を立てた。まだ衣服は乱してはいないが、彼の吐息は仄かな欲情を感じさせる。細い背中がひくりと動く。
「ベルトだけ……なのか?」
一番彼が恥ずかしくない――といっても今更のような気もするが――提案に、彼の声は予想に反して不満の色のようなものを滲ませている。淫らなことだけを要求しているだけの声音ではなかったが。
「いえ、貴方が好きなところを全部脱いで下さって構いませんよ?」
このトイレは流石に清掃が行き届いていて床も綺麗な大理石だ。衣服を落としても問題はないだろうが。
ただ、清潔そうに見えても雑菌は必ず存在する。彼もそんなことは百も承知だろうが。
震える長い指がネクタイを解く。そのネクタイは床に落とされることなく、聴診器のように彼の細い首から垂れ下がっている。その後白いシャツのボタンを外していく。色香以外の何も纏っていない彼の姿も、祐樹を魅了させる新鮮ではあるが熟れた果実のような瑞々しさだったのだが。こうして肝心な場所だけを晒す姿も初々しい。
鎖骨の情痕は少し色褪せてはいたが。複雑な心情を垣間見せる彼の瞳を見つめて微笑むと、少し安心したような吐息が零れた。彼の形も優雅だが、動きもしなやかな指がシャツのボタンを全て外し終えるのを見ていた。
幽かに尖った彼の胸の飾りを唇で挟む。左手の指は彼の唇の輪郭を確かめるように動かした後に唇を開けるように力を強めた。包帯は巻いてはいるが、手の動きに不自由のない右手で上着のポケットからこのホテルの乳液を取り出す。
ボトルのフタを開けるように眼差しで促すと、彼の乳液に劣らず白い指が、キャップ部分の青い場所に絡む。ただそれだけの動作なのに、目が釘付けになるようなしなやかで淫らな色香を孕んでいた。
フタを開けた途端、極めて幽かに独特のスパイシーな香りが鼻腔をくすぐる。その容器を彼の鼻梁の下に持っていく。他に人間にはどうということのない香りだが、2人にとっては特別な感情の火を煽る媚薬の香りだ。
案の定彼の瞳には凄絶な色香が宿る。そして妙に耳に響く金属音を立てながら彼の手がベルトの金具を外している。彼の細いがバランスの良い肢体は、上品な白いドアを背にしても負けない――というよりもそれよりも上品な白さと薄紅色の絶妙な色合いに染まっていた。
彼のベルトも四角いウエストラインにただ絡みついているだけのものになる。ベルトの色が黒だったので、それは何だか淫らな拘束具のようにも見えた。
「後ろを向いて……下さい」
低い声で懇願すると、彼は一瞬複雑な色の瞳を祐樹に向けたが、何も言わずに清潔感と妖艶さが絶妙なバランスで交じり合う優美な動きで身体を反転させた。
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