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第十二章 第16話

 交情には使用しなかった方のベッドに横たわり、祐樹の胸に顔を埋めるようにして眠る彼の顔をオレンジ色の薄暗がりの中で見詰める。  彼の寝顔はとても安らかな表情を浮かべていた。屈託も煩悶も感じていないような……。少し身体を動かすと、祐樹の体温を慕ってくるかのように彼もしなやかな肢体を動かしてくる。  激しすぎる交わりの後、彼をバスルームに誘導した。彼は一緒に入りたそうにしていたが……彼の肢体を見て、そして肝心の場所を清めるようなことをしてしまっては、祐樹自身の理性が保たない。ただでさえ、彼の身体には負担を掛けすぎたという自覚は有った。彼は祐樹1人が独占して良い人間ではない――プライベートは別にして――彼を心の底から待っている患者さんが居る限り、彼には万全の態勢で手術に臨んで欲しかった。――手遅れだという気もするが―― 「バスタブに入ってゆっくり温まるようにして下さい」  そう言ってバスルームに追いやったが、律儀な彼はその通りにしたようだ。肢体からはこのホテル備え付けのバスソルトの香りがする。ちなみに祐樹もその後に入ったので同じ香りを纏っている。  隣のベッドのシーツは潔いほど皺になり、あまつさえ2人分の体液を吸収していた。そのシーツを2人が入った後のバスタブに浸けておいたが…。まぁ、このホテルは秘密保持の観点で、ゲストの不利にならないようにキチンとしてくれる。常連になって見て分かったので外部にこんな関係が漏れるとは考えられないが。  やはり彼は杉田弁護士の示唆通り男性経験に乏しいことは分かった。次なる問題は「何故そんな嘘を吐いたのか?」だが、これも杉田弁護士が言っていたように「祐樹の過去に合わせたから」なのだろうか?それなら彼は祐樹に都合の良いような言動ばかりしてくれていることになる。  そういえば、情事の最中も彼は自分の名前を良く呼ぶことも気付いていた。理性が飛んでいようといまいと。彼ほどの頭脳の持ち主ならば情事の際に即座に計算して間違った名前を呼ばないようにすることくらいは簡単そうではあるが。彼の場合は理性が飛ぶと本音しか出て来ないような気がする。そんな状態でも祐樹の名前は良く出て来たが、他の固有名詞は全く彼の口からは出て来ないことに今更ながら気付く。  自惚れではなく、本当に祐樹のことを想っていてくれているのだろうか?それならばそれで筆舌に尽くしがたいほど嬉しいのだが。  まだ彼の言動で不思議な点が有った。彼がバスルームに入っている間にマナーモードにしていた携帯を見ていると着信履歴に公衆電話がまた有った。それを不思議そうに眺めていると、彼が入浴を済ませて部屋に入って来た。 「携帯電話に何か?」  情事の余韻か甘く掠れた声で質問され、別に隠すことではないので正直に答えた。 「それは何時頃からなのだ?」 「そうですね。1日前くらいからです」 「祐樹に電話を掛けてくる相手で……携帯電話を持っていない人間の心当たりは?」  何だか彼の雰囲気が柔らかな、しかし真剣そうなものに変わる。 「心当たりは一件だけです。M市民病院に入院している母くらいで……他の人間は携帯を皆持っていますから」  その返事を聞いた彼の薄いが意外と弾力のある唇が満足そうな笑いを刻んだ。が、その微笑は「モナリザ」のように謎めいていて。 「お心当たりがあるのですか?」  つい聞いてしまう。 「有ると言えばあるのだが、祐樹に胸を張って報告出来る段階ではないのだ……全てが決まったら直ぐに祐樹に言うから……それまでは公衆電話の主と話すくらいに留めておいた方が良い」  そんな風にはぐらかされてしまった。  祐樹も思いも掛けなかった尾行というショッキングな出来事に思考回路が分断されている。彼を愛してしまったことには後悔はしていないが、告白方法の問題もある。それに星川ナースの黒幕がいよいよ明日分かるのだという知りたいような知りたくないような複雑な気持ち。  尾行の件は彼には黙っておくことにしようと思う。  彼は職務上も、それから手術妨害の件でかなり精神的に疲れているはずだ。  尾行は今のところ祐樹だけなので、余計な心配は掛けたくはない。  尾行となると興信所が一枚噛んでいるのことに間違いはない。そういう案件を良く知っているのは杉田弁護士だろうな……と思う。  明日、星川ナースの情報開示で、彼の事務所に行くので教授と別行動をして相談しようと決意した。そもそも、研修医の仕事――香川教授の下に付くことになっても今のところ主治医として割り振られているのが鈴木さんだけなのだから――教授のポストに居る彼とでは多分忙しさは雲泥の差だろうと思う。ならば、教授よりも先に杉田弁護士の事務所にたどり着けるのは簡単なように思える。  彼の安らかな寝息を聞いて、シャンプーをしたせいか前髪が額に掛かっている。髪も乾かさずにベッドに入ったせいか――「乾かさず」ではなく「乾かせず」かも知れない。  彼には祐樹の欲情の赴くまま随分激しい行為をした。その疲れが彼に眠りの天使を呼び寄せたのだろう。   生乾きの彼の柔らかな髪が少し寝癖で立っている。それを長い間撫でながら、これ以上、彼の心配の種にならないようにしようと固く決意した。  尾行の件は、今のところ祐樹にしか付いていないようだ。興信所=見合い相手の素行調査というイメージしか祐樹にはピンと来ないが、現在、祐樹にはそんな縁談を持ち込まれていないし――そんな縁談は普通2つのルートだ。1つは両親から、そしてもう1つは上司からだが……祐樹の父親は他界しているし、母親は腎臓病で入院中だ。息子の縁談に気を回す余裕はないだろう。上司は香川教授で……彼は今までの行動を見ている限り、そんな余計な世話はしないだろう。  となると、医局内のゴタゴタの首謀者が祐樹に監視する価値を見出したのだろうな…と思う。星川ナースが手術室から消えてくれてせいせいしているのに、敵の執念深さには呆れるしかないが……この尾行問題は彼には知らせないでおこうと思って居るうちに睡魔が襲ってきた。

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