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第十二章 第17話

 まどろみの中で視線を感じた。何だかずっと感じていたい柔らかで温かい視線。数分の間は目を閉じて自分の状況を確認していたが。  ああそういえば昨夜は最愛の彼と一緒だった……と徐々に意識が鮮明になる。寝顔を見詰めていてくれているのだな……と思うと訳もなく幸せな気分になった。  そういえば何かの本だか雑誌だかで「より愛している方が相手よりも遅くにしか寝られないし、相手よりも早く起きてしまう」と読んだ覚えがあったような気がしたが……自分達はどちらなのだろう?尤も、曖昧な記憶が確かならば、その一節は男女間の恋愛がテーマだったハズだが。  昨夜は彼の方が先に眠りに落ちた。まぁ、作為的に彼の体力を奪い取って先に眠りの天使が彼に砂を撒くようには仕組んだのだが。それだと祐樹の方が愛しているということになる。今朝はどうやら彼の方が早起きをしたようだ。先の作家だかエッセイストだかの文章が正しいのであれば、彼の方も祐樹を愛してくれているのだろうか?  柔らかな視線は祐樹が完全に覚醒して、そんなことを考えている間もずっと祐樹の顔に注がれていた。頬の辺りに彼のしなやかな腕の感触が当っている。どうやら肘を付いて見ているらしい。何時目を開けて驚かそうかと悪戯心もわく。が、左腕は昨夜彼の首の下に置いてあったせいで痺れている。  ジンジンする痛みすらも彼がもたらしたものだと思うと愛しいと思う。こういう気持ちになれるとは祐樹自身驚きだった。今までは行為が済むと素っ気無い態度で突き放すのが祐樹のスタンスだったので。左手の痺れが引くまではこうしていようと心に決める。右腕は使えるが、右掌の傷――と言っても大した傷とも思えないが――を彼は気にしているので、左手がキチンと動くようになってから起きたフリをしようと。  そう思っていたのに……至近距離にいる彼の身体がすらりと動きベッドから下りたのがスプリングの具合から分かる。昨夜は少しでも肌を密着させたくてお互いバスローブなどは羽織っていない。彼の若木を思わせる綺麗な身体のラインが無造作に動き回っている様子を想像すると……朝の男の生理現象がマズい。しかも、その対象がすぐ近くに無防備に居るのでなおさら……。これが休日なら朝からというのもまた刺激的でイイが、あいにく今日も2人は手術だ。彼には昨夜かなり無理をさせてしまったので、これ以上の行為は慎むべきだろう。  祐樹としては悲愴な決意をして瞳を開けた。彼は祐樹が目を開けたことに気付かずに祐樹の右の指を大切そうに握って反応を確かめているようだった。右の指を動かし彼の指を握った。そしてそのまま彼の指に力を込めて祐樹の身体の方へと誘導した。  彼は一瞬驚いたようだったが、微笑んで祐樹の瞳を見詰める。その雄弁な瞳の色は少しの不安が宿っていることを祐樹に知らせる。「大丈夫ですよ」という意味を込めて瞳の力を強くするが、彼の危惧の色は払拭されない。  手を強く引き、彼の祐樹よりは小さな頭――こんな小さな頭に天才的な頭脳が入っていることが信じられないが――の後頭部を手で引き寄せて口付けを送った。もちろん一回だけで済むわけがなく、唇と舌と歯で彼の薄い紅色の唇が紅くなるまで貪った。普通なら淫靡な水音になるはずの行為だったが……彼の朝の雰囲気はどこか凛としていて、怜悧なイメージになるのが不思議だった。そういう彼に惹かれたことは否めないが。  朝の挨拶には濃密過ぎるキスを終えると、満足げな吐息を零した彼が真剣な瞳で言う。 「包帯はきちんと巻かれているようだが、傷口の消毒をしないと……」  せめて朝の挨拶をして欲しかったな……と思ったが。いや、彼は「あの」天然の長岡先生の上司でもある。彼も天然が入っているのだろうか? 「お早うございます。傷は痛みませんし、大丈夫ですよ」 「お早う……祐樹。傷を甘く見ない方が良い」  そう言うとクラブフロアに電話を掛けて消毒薬など一式を取り寄せている。  …ちょっと待って欲しい…この部屋は昨夜の情事の名残りが色濃く漂っている。そんなところにホテルのスタッフを通すのか?と少し動揺した。 「取り敢えず、パジャマかバスローブを着て下さい」  目の毒過ぎる彼の肢体を意識して見ないようにする。直視してしまえば……理性の歯止めがなくなる確率は100%だ。祐樹もバスローブを急いで羽織る。チャイムが鳴ってスタッフが「お求めの物をお持ち致しました」と言う声に、祐樹は急いで扉まで行く。 「有り難うございます。助かりました。お手数をお掛けして申し訳ありません」  部屋を詮索されないように普段より早口で礼を言い、品物を受け取るとドアを閉めた。スタッフの人が不快にならないように気を配りながら。  彼に悪気がないことも分かっている。単純に祐樹の怪我の心配をしてくれただけだろう。苦言を呈することも出来たのだが、今日は彼にとっても不安な日だ。これ以上彼の心労を増やしたくない。 「貴方が怪我の手当てをして下さるのですよね。光栄です」  そう言って微笑むと彼は全身で安堵の表情を浮かべた。包帯を解いてみても祐樹の怪我は出血もしておらず経過――というほど大袈裟なものではないが――は順調だった。彼は難手術の時と同じ視線で祐樹の傷を見て、安心したように顔を上げて微笑んだ。器用に包帯を巻きながらほつりと言った。 「化膿や後遺症の心配もない……良かった」  その声が心の底からのものだとは祐樹にも分かる。 「大丈夫ですよ……。それよりお腹空いてませんか?食事に行きましょう」  昨夜のうちに自分達の衣服はランドリーサービスの袋に入れてドアの外に掛けておいてあったので、祐樹が薬をスタッフから受け取る時に一緒に部屋の中に入れてあった。  彼の着替える姿を横目で堪能しながら祐樹もスーツを身につける。彼の鎖骨上の情痕が白いシャツに隠れてしまうのを惜しみながら。  クラブラウンジに行き、まずは朝食を摂っているゲスト達の反応を確かめる。女性が彼を――時折は祐樹を――見詰める眼差しや、中年男性が彼を見て「どこかで見たことがある」といったごく普通の――財界人が読む雑誌には香川教授は医学部長命令で良く取材されているので――視線しか感じなかったことに一先ず安堵する。尾行はまだこのホテルには及んでいなさそうだ。  まだ出勤時間までは間が有ったのでJRでK駅まで行き、祐樹の部屋に一旦は戻ろうと二人で相談したのだが……祐樹のマンションに近付くと、ナンバーにも見覚えのある黒いセドリックが停まっているのを見つけ、足を止めた。

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