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第十二章 第18話

「祐樹……どうした?」  不自然に歩みを止めた祐樹を見て彼は不思議そうな眼差しを向ける。咄嗟にどう対応して良いのか分からなかった、トラブルには職業柄慣れているとはいえ。 「いえ。靴の中に小石が挟まったようです。ちょっとそっちの方へ」  さり気なく小路に彼の腕を引いて誘導した。そっと様子を窺う。昨日と同じ車種とナンバープレート。  車の中には男が2人で新聞を読んでいる――あるいはそう装っている――様子だ。靴を脱いで逆さに振りながらどう対処すればよいのかを必死で考えた。とにかく2人で祐樹の部屋に帰るのはマズい。天下の往来で男2人が歩いていても問題は今のところないが、あの車の角度からは祐樹の部屋の玄関が見える。職場関係以外で探られるようなことは何もしていない……ハズだ。  もちろん警察のお世話になるような厄介事に巻き込まれた覚えもない。ましてや医師法違反で逮捕されるには研修医の身分ではありえないと思う。そもそもが違反した覚えもない。とすればやはりあれは興信所なのか……と思う。  自分だけがターゲットとも思えない。教授も何らかの形で関わっているハズだ。興信所にも依頼した人間が誰かは見当も付かないが。大学関係者ならば教授の顔写真も調査員に渡っている可能性は否定出来ない。   一緒に朝帰りをして、なおかつ彼を部屋に入れる合理的説明が全く出来ないことに気付く。  百歩譲って祐樹自身の身上調査でも彼の顔は写真に撮られるかもしれない。仮に自分が調査対象者だとしても、依頼人が大学関係者しか居ないような気がする。縁談など来ていないのだからそれ以外には考えられない。それに敵は星川ナースを取り込むほどのことはしてみせた。それならば興信所を使うことぐらいはするだろう。それに時期的にもピタリと当てはまる。星川ナースが手術から外されてのスグの出来事だ。新たなナースの買収をするよりもその道のプロに頼む方が――金に糸目は付けない人間だと仮定すれば――簡単なハズだ。  別に祐樹は困らないが、彼が困るだろう。部下の自宅に朝に訪れる必然性は全くないのだから。しかも2人そろって。  2人で往来を歩いている時は怪しげなというか、情交の名残りの甘い雰囲気などは特別に醸し出していない自信はある。彼もごくごく普通の表情をして歩いている。 ――普段の彼は2人きりの空間でこそ甘い雰囲気を纏ってはいるが、他人の目を気にするタイプだ。だから昨夜のような背徳感のある場所での情事を敢えて選んだのだから――部屋に上がる時も多分表情は変えないだろうと予想されるが。ただ、身体を重ねた関係というのは何となく嗅覚で分かる人間も居るだろう。特に情事の甘い香りの残り香が染み付いている今の自分達では。  一般人には気取られない自信は無いこともない。  ただ、相手は興信所に勤める人間なら普通の人間とは異なった経験を職務上持つのではないだろうか?例えば、こちらの世界では食事中に手術の話をしても普通だが、一般人だとしないだろう……そういった職業柄の特殊な事情を会得している蓋然性は高い。  取り敢えずは部屋に上がらずにどこかで時間を潰すしかない。そう瞬時に判断した。彼も祐樹の様子を幾分怪訝そうに窺っている。 「祐樹?あの車に何か……?」  彼が特別敏くなくても雰囲気の微妙な変化に気付いただろう。こんなに近くに居る人間が明らかに挙動不審な行動を見せれば。しかも心を許してくれているだろう……昨夜の一件でおぼろげながらも分かってきたが、彼はそうそう容易くは身体を好きにはさせないような気がする。祐樹の気のせいでなければ。  彼はただならぬ雰囲気を察したのか心持ち青ざめている。 「いえ、あのう……煙草を切らしたので、コンビニまで戻って良いですか?」  苦し紛れの一言だった。彼は記憶をスキャンするような怪訝な顔をしていたが。 「…・・・ああ、別に・・・・・・構わないが…・・・」  明晰な言葉遣い――情事の時は別にして――をする彼にしては覚束ない口調で言う。 「では、行きましょう。こちらの方が近道です。こちらのコンビニの方が品揃え……豊富なのです……」  こういう時にこの街は便利だ。小路がきっちりと張り巡らされているので、祐樹の自宅とは死角になるような道が選べる。 「煙草の品揃え?」  明らかに不審そうな声が返ってくる。そして祐樹は自分の失言を知る。祐樹が吸っている煙草は売っていない店の方が珍しいほどポピュラーな銘柄な煙草であることは、喫煙者ではない彼も知っているハズであることに。  もうこうなったら開き直るしかない。 「ええ、あちらのコンビニ……纏め買いをする常連客が居るらしくて……時々切らしているんです。ですからこちらのほうが確実なんです……」  黒いセドリックから十分離れて後ろをそっと振り返った。尾行者の有無を確かめる目的も有ったが、隣を歩く彼の目を盗むつもりで。  幸いにも尾行されている気配はなかったが。チラリと覗った彼の切れ長の瞳はどこか悲しみの色を湛えているのが気になった。が、今現在本当のことを話してしまったら、せっかく昨夜一晩かけて解した彼の心労の種がまた1つ増えることになる。それだけは避けたかった。  幸いと言うべきか二人とも荷物は持たないで行動するタイプだ。ノートパソコンなど迂闊に置き忘れたら患者さんの個人情報が漏れて大変な騒ぎになる。  それに加えて教授は白皙の美貌に関わらず特別に手入れをしている様子は全くない。彼は自分の魅力に気付いていないのではないか?と以前、弁護士の杉田先生が言っていたが当たっているような気がする。彼が愛用しているのは柔らかな前髪を後ろに固定するムースだけだった。あのムースなら教授室で見た覚えがある。祐樹も女性のように肌の手入れなどはしたコトもない。――したこともないのに、以前付き合った女性からは肌の綺麗さに羨望の意見を貰った覚えがある。普通に洗顔しているだけなのだが、それにスモーカーで睡眠時間は足りているとは言いがたい。それなのに、「並みの女性よりは綺麗な肌をしているのね」と言われた記憶がある。  だからどこかで時間を潰して職場に行っても差し支えはない。教授室には着替えが置いてあったハズだし、自分は開き直って朝帰りだと患者さん――と言っても今のところは主治医にしてもらえたのは鈴木さんだけだが――にも同僚にも言おうと思った。  コンビニで煙草を買い、祐樹のマンションから遠ざかる方向に歩いて行く祐樹を教授は捨てられた血統書付きの猫のような雰囲気を纏いながらも余計な詮索はせずに祐樹の歩みに任せる。その足取りが悄然としているような気がした。

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