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第十二章 第19話

 先ほどまでの密やかでいながらも甘やかな雰囲気ではなく、どこか張り詰めた雰囲気を持つ彼に笑いかけた。笑顔が強張ってしまうのが自分でも情けない。緊急事態には慣れているハズだったのだが。やはり別種の脅威には弱いということかと自分を叱咤した。 「あのう……煙草を吸いたいので、喫茶店に入りませんか?」  ついつい背後を気にしながらそう提案した。 「……煙草?……別に部屋で吸えば良いのでは?……私は気にしないが……」  彼は幾分温度の低い、抑揚のない声で言う。彼が傍に居るからという理由で控えはしていたが別に禁煙していたわけでもなかった。彼の目の前で部屋で吸ったことも有る。当然そのことは彼も知っているわけで……他の口実をでっち上げなければならない。  答えに窮して辺りを見回す。二人が歩いている小路は民家が並び朝の掃除をする主婦や高齢者がいる。そして駅に向かうであろう通勤者の姿もちらほら。不審な人間の姿はない。  朝食をホテルで摂ってきたのが悔やまれる。朝食だと店に誘い込む絶好の口実なのに……。 「部屋に入って二人きりになれば……理性よりも欲望が勝ってしまう恐れが有るんですよ……今朝の貴方を見ていると……いつもよりももっと綺麗だから」  半分は本気を込めた低い声で言う。彼は祐樹の顔を何も言わず、ただ凝視していた。  その瞳はまるで客が家に入って来た時に様子をこわごわと窺っている気品のある洋猫のような感じだった。  こちらも警戒心を解くように微笑みかける、信じてもらえるような笑顔を浮かべていると……信じたい。  幽かな吐息を漏らした後、彼は気を取り直したように笑顔を浮かべる。 「喫茶店でも、どこでも良い。別に私は……」  語尾が掠れて、どこか投げやりな声だった。笑みは浮かべているものの、彼の瞳は凍てついた深山の湖のようだった。他人を寄せ付けない荘厳さすら感じる。敢えて何も感じていないフリをして話を続ける。 「この先の喫茶店……多分貴方も気に入って戴けると思います。とても美味しいコーヒーを出すので……。一度ご案内したいと思っていました」  そういう喫茶店があるのは本当だ。それに彼を誘いたいと思ったことも。  張り詰めた雰囲気を幾分解いたようだった。多分、今回の祐樹の言葉には嘘がないと判断したのだろう。 「……そうか、それは楽しみだ……な……」  口調と裏腹にどことなく悲しそうな口調が祐樹の胸を痛ませる。  しかし、全てを語ることで、彼が余計に傷つくのではないかとも思った。ここは専門家の意見を聞いた方が良い。今日は杉田弁護士とアポイントメントの日だ。彼よりも先に行って何かしらのアドバイスを仰ぎたかった。彼は職業柄自分などよりももっとこういう経験を積んでいるだろうし、何よりも人生の先輩なのだから。  他人の目がないのを確かめて、彼の白い指を祐樹のそれと重ねた。指のかすかな温かさが彼の心に少しでも届けばいいと願いながら。  隣の彼は祐樹の手を振り払うわけでもなく、一心に前を向いて歩いている。  必死で自分を鼓舞しているような痛々しさを感じる。それは一回目にゲイ・バー「グレイス」で彼に誘われた時と似たような雰囲気だった。  関係を重ねた今となってはそのことが良く分かる。あの時は全く分からなかったが。彼は喜怒哀楽の情をあまり表面には出さない人間なのだということも。人目の有るところでは特にその傾向が顕著だ。  喫茶店で向かい合って座ると、彼は黙って灰皿をこちらの方へ押しやった。その手が少し震えている。出会った頃の彼はよくそうしていたが……。  ツイその動作を目で追っていたため、忘れそうになっていた。ジャケットの胸のポケットに祐樹が元から持っていた煙草が入っていて、先ほどのコンビニで買った物はズボンのポケットに仕舞っていたことを。慌ててズボンのポケットから煙草を取り出して封を開ける。ライターは……元の煙草の本数が少なくなっていたので煙草のパッケージの中に放り込んである。さてどうしたものかと一瞬思案した。そこに店員が通りかかる。 「ライターかマッチは有りませんか?」  そう聞いたのは、彼だった。  言ってからしまったという表情を一瞬だけ浮かべた。彼も口にしようとは思っていなかった言葉がつい出てしまったという感じだった。気まずそうに祐樹の方をちらっと見た目が鮮やかな印象を残す、こんな時だというのに。  昨日から吸った煙草の本数を無意識に覚えていたのだろうか?と思い至る。そういえば「煙草を買いに」と言った時に彼が記憶を辿るような表情をしていた。全てを悟られていたことを知る。そしてそれを指摘しないでいてくれたことも。  罪悪感を多量に、幸福感をほんの少し覚えた。彼は彼なりに祐樹の常ならぬ雰囲気を感じ取りながらもそれについては詮索せずに居てくれる。まだ愛想は尽きていないようだ。そのことだけは嬉しい。 「有難うございます。コーヒーはホットで良いのですか?」 「お勧めはどちらだ?」 「断然、ホットですね」 「ではそちらにする」  この町では大手資本の喫茶店以外、従業員は少ない。朝のモーニングタイムのせいだろうか、店内は割合混み合っていた。  彼が頼んでくれたライターを持って店員が来たので、礼を言って受け取り注文を済ませた。店内とは別の静謐さを纏った彼の無言さが却って怖い。煙草に火を点けてせかせかと吸い込んだ。煙を彼の方に向けないように細心の注意を払って吐き出す。 「そんなに吸いたかったのか……?」  気を取り直したかに見える彼が仄かな微笑を唇に浮かべて言う。 「実は……吸いたかったのです。クラブラウンジは禁煙ですから。よ……本能が十分に満たされるとツイ吸ってしまいたくなるんです」  人目があるので言葉を選ぶ。が、「本能」に複雑なニュアンスを込めて発音した。彼の頬に一刷毛、紅の色が灯った。 「本当にそう思っているのか?」  彼の眼差しは凄絶なほど真剣みを帯びている。真実を吐露する場面はここでしかない。 「ええ、心の底からそう思います」  その言葉を聴いた瞬間、彼の少し色の薄い唇から安堵ともいえる吐息が一つ零れた。 「そうか……ならば、それで良い」  唇に淡い色が戻ったのを確認する。今日も長い一日になりそうだった。今日だけで全てのトラブルが解決してくれるのを心から願っていた。  そうでなければ、彼に祐樹の想いを告白する心の余裕が生まれて来ない。このトラブルが終わったら、想いの全てを打ち明けようと心に決めた。もう躊躇してはいられない。たとえ振られるにせよ。過去の仕打ちを冷静に考えれば、その可能性は十分有る。が、告白しないではいられない。今朝の不審な行動を咎めもせずにフォローしてくれた彼に惚れ直した。これで何度目の惚れ直しだろうか……?

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