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第十二章 第20話
何度も逢瀬を重ねた大阪の街と違ってこちらでは、赤の他人のことは無関心を装う土地柄であることを思い知った。
彼や祐樹の顔をちらっと見る客や店員が居ないでもないが、暫く視線を固定して感嘆したような顔をしてはさっと目を逸らす。もちろん、彼の顔の方に視線は多く集まったが。
祐樹にしても、長く注目されると話し辛いので好都合だったが。その点、大阪の人間は気さくというか興味を惹かれることに対して貪欲というか……彼に視線を合わせた人は話しかけてくる。その辺も土地柄の差なのかと思う。職場ではまた違った反応はあるが。
「今日は手術の後のご予定は?」
努めて何でもないような話題を振る。彼は瞳に仄かな悲しみの色を浮かべていたが、気を取り直したように幾分低い声で応じた。第一助手として指名を受けているのでその程度のことは知っていた。が、その後の予定は……聞いていない。
「書類を作成して定時に上がれると思う。今日は杉田先生の事務所に行く日だろう?」
「ええ、そうです。予定通りなら例の人物が判明します。それで何とか職場の雰囲気も変わるかと思いますが……」
彼のしなやかな指が器用にコーヒーカップを持ち上げる。形のいい薄桜色の唇に白いコーヒーカップが当たっているのも艶やかだ。
「そうだな……私としては仕事が円滑に進めばそれで良いと思っている。あまり強引なことはしたくないので……」
彼の言うことは至極真っ当だ。下手に騒ぎ立てるとコトが大きくなり過ぎる。それに探り出した手段も厳密に言うと「替え玉を使って開示請求をした」という点で問題になるかも知れない。
ただ、昨日から付きまとっている尾行者のことがとても気掛かりだった。敵は新たに祐樹をターゲットにして来た。これは彼の弱みを握るためなのか……?と思う。昨日の手術中に負傷した祐樹の手の傷は、全く大したことはなかったのに……他の手術スタッフまでが香川教授の動揺振りを感じ取っていた。あれだけの人数がそう思ったのだから、ウワサは病院内を駆け巡ったとしておかしくはない。敵はその情報を――病院内に居るのであれば入手しやすいだろう――掴み、祐樹の身辺調査を依頼したのだろうか?
病院絡みではなく、祐樹の都合――縁談など――の件の身辺調査だったら全くの杞憂になるが。ただ、そういった話は全くないので恐らくは違うだろう。
「先生の事務所はご存知ですよね?」
「ああ、以前戴いた名刺に書いてあったので知っているが?」
「私の方も……内田先生に相談したいこともあるので……別々に行きませんか?」
内科の内田先生の件は全くの思いつきだ。別に相談するようなことはない。ただ、彼よりも早く杉田弁護士の事務所に行って、興信所の実態を教えて貰うのが目的だった。
彼の涼やかで切れ長の目が大きく見開かれる。その瞳には寂寥感が漂っている。
「祐樹がそう言うなら……それはそれで構わないが……」
「少しの間でもご一緒したいのですが……内田先生もお忙しい方なので、鈴木さんの件で相談したいことがありますし……」
外来診療を担当している内田先生は、手術に明け暮れている外科とは違った忙しさがあることは彼も承知しているハズだ。
「……分かった。こちらも業務が終り次第駆けつける。鈴木さんの件は柏木先生の検査結果を見て、祐樹が良いと思う方法で取り計らってくれ。私はそれを追認するから」
瞳の光が複雑な色彩を帯びる。やはり凍てついた雰囲気を纏っている。
「それから……背後にはくれぐれも気を付けて下さい。そっと振り返って怪しい人間や車が居ないかをチェックして下さい」
「それは……どういう?」
「全てがはっきりしたら申し上げます。今はそれしか申し上げることは出来ないので」
「……そうか……」
彼の男性にしては少し細い肩が力なく落とされる。あれこれと質問して来ないのには助かったが。
全てを話したいという欲求に苛まれる。が、星川ナースの黒幕と興信所らしき尾行者は繋がっている可能性が高い。ならば、今日杉田弁護士からその黒幕を聞き出したら尾行も終る。その時こそ、本当のことを言おう。そして想いの丈を彼に告白しようと。
尾行者も、外来診察を担当していない祐樹や教授の監視は事実上不可能だ。何しろ病院の奥深くの手術室が二人のフィールドなのだから。
教授の場合は、手術室と教授室のどちらかに居る。教授室のフロアは他科の教授の部屋が目白押しに並んでいる。研修医である祐樹はもちろんのこと、普通の医局員レベルでは近付くことを拒むかのような威厳を醸し出している。準教授レベルでも呼ばれない限りは近付かないような一帯だ。祐樹は臆面もなく彼の部屋に入り浸っているが。
そんなところに一般人である尾行者が近づけるわけもなく……そちらは安全なような気がした。
時計を見て、十分な時間が経過していることを確かめた。
「そろそろ出勤時間ですね……貴方の部屋には替えのネクタイ有りましたよね?」
「ああ、有るが……祐樹はそのままの格好で出勤を?」
彼の口調に怪訝さが混じる。
「ええ、私は別に構わないです。恋人と朝帰りだと思われようと……事実ですから。でも貴方はちゃんとネクタイとワイシャツを換えて下さいね」
黒幕判明の期待と尾行者の存在と……そして彼に告白しようと決意するという、考えることが沢山有り過ぎて深い考えもなく言葉を紡いでしまった。
彼の瞳が春の日差しのような柔らかさを帯びる。薄紅色の唇もどこか満足そうな微笑を刻んでいる。
――「恋人」発言でこれだけの表情を見せてくれるのだから……告白しても振られる可能性は少ないのではないだろうか――と、自分でも虫の良いと思う感想を抱いてしまった。
「貴方は、肩書きに相応しく、タクシーで出勤して下さい。私は徒歩で出勤しますので」
「分かった。ところで怪我は大丈夫なの……か?」
あくまでも心配性な彼に向かって右手の指を動かす。
「この通り、全く支障はありません。手術の時は手術用手袋の装着が邪魔なので包帯は外しますが、そもそも包帯をする程度の傷ではありませんから」
「それだけ動くのなら安心だが……。だが、手術中に痛みでも感じたら、私の足をそっと蹴ってくれ。助手を即座に交代させる」
「大丈夫です。貴方の足手まといにはなりませんから」
店を出て――もちろん、コーヒー代は祐樹が支払った――大路に出てタクシーを拾った。怪しい気配がないか、細心の注意を払いながら。
彼は一瞬未練めいた眼差しを投げかけたが、外科医は思い切りが良い人間が多い。タクシーに乗って去って行く彼を道端に佇んで見送った。彼も車窓からずっと祐樹に視線を送ってくれた。今日は色々ありそうだが、喫茶店に入る前よりは心は軽かった。
これから祐樹を待ち受ける苦難をこの時は知るよしもなかったので。
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