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第十二章 第21話

 喫茶店に戻って煙草をもう一本吸う。紫煙――といっても実は副流煙で毒性はある意味、吸い込む煙よりも強いのだが――の行方をぼんやりと眺めながら時計を見る。教授秘書の出勤時間より早く彼は教授室に行けるだろう……この町独特の渋滞に巻き込まれなければ。  女性は目敏いのでネクタイが同じことくらいは直ぐに気づきそうだ。が、あの思慮分別のありそうな彼女なら余計なことは言いふらさないだろうが。  昨日からの尾行は祐樹にとってかなり神経を消耗させている。特に彼を守らなければという思いと、勘の良い彼に気づかれずに済むようにと頑張ったつもりだが……上手く成し遂げた自信は全くなかった。  彼が変な方向に誤解していないことを願うばかりだ。が、彼が垣間見せた表情の一つ一つが脳裏に蘇る。   やはり何か思うところはあるのだろう。早く誤解を解かなければと思う反面、全部打ち明ける気にもなれない。それでなくても彼を取り巻く陰謀の渦と昨日の祐樹の怪我でかなり参っているハズなので。  今日の夕方には杉田弁護士の事務所に行き、情報が上手く開示出来ていれば明日にでも問題は片付く。それまでは尾行の件は祐樹の胸の中に収めていれば良いと思った。  そろそろ出勤時間が迫っていたので喫茶店を出た。徒歩で病院へと向かう。スタッフ専用の入り口へと通じる道を曲がる。その瞬間、祐樹の足が止まりそうになった。が、自分を叱咤させ足を動かした。  また「あの」セドリックが停まっている。ナンバープレートも間違いはない。中の男も二人だった。顔は昨日の二人とは別人だったが。考えてみれば、自分の職場に定時に出勤しても何らおかしい点もない。  先ほどよりも――職業柄か、普通の人よりも早足で歩く習慣がついている――ゆっくりと歩く。中の人間もこちらをさりげなく見ている感じだった。  祐樹も中の人間を気づかれないように観察した。いたって普通の顔つきに、そこいらで売っているような安物のスーツに身を包んでいるようだ。暴力団関係者のようにも見えない。祐樹がドラマで見た覚えのある――といってもドラマが全て真実ではないことぐらい承知の上だが――興信所の職員らしい感じだった。  だが、一つだけはっきりしたことがある。数パーセントの可能性で、縁談の身上調査という線も考えていたのだが、それは違うようだ。祐樹が知らない間に縁談が持ち上がっていたにせよ――祐樹には最愛の人がいるので絶対に、断固として断るが。彼を知った今となっては彼しか考えられない。性格といい顔といい、そしてあの極上の身体。しかも祐樹が花開かせたのだと思うと晴れがましさすら感じる。――職場の入り口にまで張り込むようなことはしない。――世間では女だろうが――恋人と朝に同伴出勤などする社会人はいないだろうから。それならご近所に「交際している人間は居ないか?」などを聞き込むだろう。  そこでまた愕然とする。マンションには教授と今のところ住んでいる。別にあの部屋で疚しいことは誓ってしていないが「男性の同居人が出来た」ということは隣の部屋の住人ならば分かるハズ……そちらに聞き込まれてはいないだろうか?  職場の誰かが依頼したならば、当然教授の写真も手渡っているハズだ。出入りするところを隣の人に見られていないという絶対の自信はない。というより、隣にどんな人間が住んでいるのか祐樹は知らない。仕事が忙しすぎてあまり自宅に帰っていないので当然だったが。  そういえば、とある大病院の一人娘に婿養子として入った先輩の雑談を思い出す。付き合っている女性は居ないかを興信所まで使って調べられたという医師だった。彼はなかなか整った容姿の持ち主だったので、恋人の一人や二人は直ぐに出来そうな感じの人だった。実際は仕事一筋で真面目な性格の人だが。  ただ、この仕事は女性を引っ掛けようとすれば他の職業よりは簡単だろうな……とは思う。  結婚に全く関心のない自分のところにまで今流行りの「婚活」業者からのダイレクトメールが来るのだから。しかもお見合いパーティは無料。年会費も無料という他の職業からすればありえない好待遇と読み捨てた紙面に書いてあった……ような気がする。  そういえば、山本センセあたりがそういうパーティに行って戦果を自慢していたな……と思い出す。彼は実家がかなりの規模の病院なのだからこの医局には箔付けのために居残っているようなものだ。そのくせ、大学内でも出世したいらしい。祐樹にすれば羨ましい話だ。家業を継ぐか病院で出世を狙うかどちらかに絞ればいいだろうと単純に思ってしまうのだが。  それに山本センセとも仲が良い医局長の畑中先生や講師の木村先生などは、香川教授の着任以来、手術には呼んでもらえずにいる。  前任者の佐々木教授などは日本的な意味での政治力の持ち主だから手術に呼ぶ回数が減っても他の注目されるような仕事を任せてきた。もともと佐々木前教授はずっとこの大学病院におり、学会にも顔が広いのでそういった晴れがましい席を部下に用意するのは簡単だったように思う。  反して香川教授は海外での評価は高いし、手技も確かだが、いかんせん日本の医学会にはデビューすら果たしていない。祐樹が聞いていないだけで声は掛かっているのだろうが。  ただ、着任以後手術の予定がびっしり詰まりそんな余裕は無かったのだと思う。しかし彼の采配に不満を持ったとしてもおかしくはない。もともと山本センセは香川教授着任に反対していたのだから余計に。  興信所の調査だが、その先輩医師は出入りのクリーニング屋にまで調査員が出向いたと笑って言っていたことを思い出す。クリーニング屋の人から聞いたらしいが。そこで女性物のクリーニングを頼んでいなかったかどうかの聞き合わせだとか……。  クリーニング屋……は大丈夫なハズだ。祐樹の部屋に来たら、彼は直ぐにスーツを脱いで普段着に着替えていたし、その普段着はどちらかが洗濯機に放り込んで干していた。彼の着ているスーツと祐樹のスーツとでは値段がどれだけ違うのか正確なところは分からないが、彼のスーツを祐樹が時々利用するクリーニング屋に預けた覚えもない。  さりげなく車の横を通り、昨日自分を追跡した人間と違うことをもう一度確認してから病院の通用口をくぐった。  医局に入り、柏木先生を目で探す。彼も今日の手術では助手を務めることになっているのでもしかしたら手洗い場に行っているかもしれないな……と思ったがまだ彼の机に居た。 「お早う御座います。鈴木さんの血液検査の結果、出ましたか?」 「お早う。出た。念のため血中タンパク質検査まで行ったが、全く問題はない。彼は医療現場ではストレスを感じないタイプの人間らしいな。これが結果だ」  そう言って几帳面に綴じた書類を渡してくれた。急ぐらしく――もしかして祐樹が出勤するのを待っていてくれたのかもしれない――「手術室で」と言って立ち去った。畑中医局長が入院患者に関するミーティングを開いている。祐樹を見る目が――気のせいでなければ――意味深だった。  だが、そんなことを気にする余裕はなく祐樹も手術室に向かった。今日の業務が一刻でも早く終わり杉田弁護士の事務所に行けるように願いながら。  準備を済ませ、執刀医の到着を待つ。彼専用の扉が開く。普段と同じ雰囲気を纏っている。冷静かつ明晰な。一瞬心配そうな眼差しが祐樹に注がれる。多分手のことだろうな……と思い、指を動かして見せた。    それを確認すると切れ長の瞳に微笑を浮かべて手術開始を静かに宣言した。

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