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第十二章 第22話

 一番の懸念材料だった道具出しのナースは…と見ると何と清瀬師長だった。今日は部下に任せて置けないと踏んだのだろう。手術室付きのナース長として。  昨日の高級お弁当の恨みは忘れたように。だが、実際は執念深く覚えているに違いない。昨日の教授室からの退室間際にナースの間で一大旋風を巻き起こしているという教授の顔よりも、お弁当にあれほど未練がましい眼差しを送っていたのだから。  その彼女がまるで新米ナースのように神妙に控えている。エースではなくベテラン自らのお出ましかと思った。が、流石に手術室のナース長だけのことはある。動体視力も反射神経も――こう言っては大変失礼だが普通は若い方が有利だ――若い女性に引けを取ってはいない。  手術は順調に進行していた。香川教授も道具出しのナースが変わってとても優雅かつ大胆なメス捌きで手際よく手術を進めて行く。第一助手は逆にこういった場所での目配りが大切だ。手術が順調に進んでいると誰かが本人も自覚しない時に油断をしてしまいがちだ。それを未然に防ぐのも助手の大事な仕事だ。手術室を注意深く見回したが、皆が各自の務めを果たしているようだ。医師はもちろん、コ・メディカルと呼ばれるナースや技師たちも。  何よりも執刀医が落ち着いているのが大きいのではないだろうか。執刀医が動揺すると末端まで拡散していくものだから。昨日は祐樹が怪我で手術室を後にした時、手術室が緊張の度合いを高めたのだろう。 「再鼓動……戻りました」  多分新米の手術室ナースだろう、若いナースが機械を確認し教授の瞳を見て幾分甲高い声で宣言する。  香川教授は切れ長な瞳に真剣そうな光を湛えて全部の機械を素早くスキャンするかのように視線を動かす。 「終了。主治医はCCU――心臓外科の集中治療室――に付き添いを」  手術現場では単語単位の言葉で伝達しあうのが普通だ。それまでに打ち合わせは――香川教授の場合は文書で提出され、その後、手術前に疑問点を質すくらいだが――全て済んでいるので。  手術室に弛緩した空気が流れる。祐樹は彼の視線を感じてはいたが、さり気なく口角を上げて笑みの形を作っただけでそれ以上のことはしなかった。といっても、手術室に長い間留まる医師は居ない。次の手術に使うために滅菌作業があるのだから。  スタッフ専用の着替え室で着替えていると柏木先生が隣に立った。 「お疲れ様です」 「ああ、お疲れ様。今日は上手く行って何よりだった。やはり道具出しであんなに変わるものなのだなと再確認した。で、昼食後は鈴木さんのところに行って、救急救命室に一緒に行くのか?」 「ええ、そのつもりです」 「そういえば、田中先生はこの病院に残りたいのだろう?研究テーマをそろそろ決めていたほうが良い。香川教授は別にして――あの人は腕が確かだから病院側も文句は言わないだろうが――普通、医局に残るには研究テーマが必須だぞ。  田中先生の『入院患者のQOL<クオリティ・オブ・ライフ>の向上』は良いテーマだと思う。確かオーベン(指導医)は香川教授だろ?相談してみればいい」  柏木先生の言葉に裏は無さそうだったが、彼の前に行くのはどうも気が重い。彼は敏い上に勘も良い。しかも抜群の記憶力を持っている。  その点、今朝の祐樹は尾行者の気配に気付いてからは思いつきを並べ立ててきた。真実なら何度でも同じことを繰り返せるが、思いつきで口走ったことは……曖昧な点が多い。その矛盾点を――どうやら、彼は何かを勘付いており、祐樹に問い糾すことはしなさそうな雰囲気だったが――突かれるのは怖い。  ますます泥沼に嵌って行きそうで。  祐樹と違って主治医の掛け持ちをしている柏木先生は忙しそうに白衣に着替え、手術室横のロッカールームから出て行った。  昼食を……と思って財布を探ると、財布よりも先に携帯電話が手に当たった。着信を示すランプが点滅している。履歴を見るとまた「公衆電話」だった。念のため「留守番サービスセンター」に繋いでみたが「メッセージはありません」とアナウンスが流れるだけだ。せめて留守番電話に吹き込んでおいてくれ!と八つ当たりをしたくなる。  そういえば……と履歴を確認する。祐樹の携帯はそんなに使わないので履歴も僅かだ。公衆電話からの着信は普通の勤め人なら就業時間のハズの時間に集中している。10時頃から18時頃までだった。ますますワケが分からない。やはり心当たりがあるのはM市民病院に入院している――長男で一人っ子の祐樹だが、仕事の忙しさに紛れて見舞いにほとんど行っていないーー母からの電話だろうか?  病院に電話をしようかと時計を見る。が、あいにく入院患者も昼食時間だ。それはどの病院でも同じタイムテーブルで動くことは、数少ない母の見舞いに行った時に知った。  まあ、当たり前と言えば当たり前なのだが。そんな時間にM市民病院に電話をしても母を電話口には呼んでくれないだろう。  考えていても徒労なだけなので昼食を買いに病院を出た。今日は彼と差し向かいで食事を摂る気分にはなれなかった。彼に嘘を重ねるのも嫌だったので。  これも仕事が終って杉田弁護士の事務所に行って全てが解決したら、全部彼に話そうと思っていた。事情が事情だけに謝ればたいして怒りもせずに許してくれるだろう…。  職員用の通用口を出た途端、また黒いセドリックが停まっていた。いつか暇つぶしに見た覚えのある「○ニワ金融道」のような闇金のような執拗さだった。もちろん祐樹に借金はない。気がついてないようにさりげなく通り過ぎたが、祐樹は視力も記憶力も並以上だ。朝の2人と同一人物なのを確かめる。いよいよ縁談の件ではないな……と確信が深まる。  狙いは祐樹と……そして多分次のターゲットは彼だ。幸い祐樹と彼は別々に杉田弁護士の事務所に行くことにしている。二人とも尾行を撒いてしまえばこちらのものだが……さてどうやって彼に説明しようかと思う。  コンビニに着いて……いつもは手術後には空腹を覚えるものだが、今回は全く食欲が湧かない。ゼリー型のバランス栄養食を買ったついでに誰にも気付かれずに祐樹が病院を出る方法を……考えていた。  どうやら、スタッフ専用口をマークしているらしい。――昨日祐樹を追ってきた別の人間が正門をマークしていない限りは。ならば、突破口はあるような気がする。雰囲気を変えて、いかにも外来患者らしく正門から出て――正門には患者さん待ちのタクシーが列を作っている――そのタクシーに病人らしく乗り込めば良い。彼の脱出方法は後でじっくりと考えるつもりだった。

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