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第十二章 第23話
ネクタイを解いてポケットにでも突っ込み、ジャケットを脱ぎ髪型を変えれば何とかなるかもしれない。
本当は眼鏡でも有れば最高なのだが。祐樹は裸眼で眼鏡はかけていない。もちろん、眼鏡を掛けている先輩医師は腐るほど居るが、いくら非常事態だとはいえ「貨して下さい」とは言えないし、ましてや盗み出すことは道徳的にも出来ない。しかもその上見つかれば窃盗罪だろう。
コンビニの整髪料の棚に立つ。都合の良いことに祐樹に付いてきた黒いセドリックの人間は店内に入っては来ていない。さり気なく祐樹の行動を監視しているようだが。気付いていることを感じさせないようにこちらも細心の注意を払う。
幸いなことに整髪料の棚はガラス張りのコンビニの奥に有った。これならレジの精算するところを見られない限りは祐樹が何を買ったのか分からないだろう。前髪をいつも下しているので前髪を上げれば多分印象は変わるハズだ。どれを買おうかと棚を見回した。色々有っていつもは縁がない分どれにしようか迷ってしまう。
が、彼がいつも使っていて見覚えの有る「○NO」ハードタイプを見つけた瞬間、迷わずその商品に決めていた。彼は、着るものこそ高級ブランドだが。いつも使うものはコンビニでも売っているものばかりなのだな……とこんな時なのに自然と微笑が零れた。誰にも見られていないことを確かめた後にさり気なくだったが。
彼は服などは高級ブランドだが、それはたまたま高級店で纏め買いするタイプのようだ。それ以外の日常品は祐樹と同じレベルの物を躊躇なく――というよりも物に対する拘りはないのだろう――そういう無造作さも祐樹にとっては好ましい。
が、彼をどうやって尾行者から撒くのかが目下のところ愁眉の急だ。何しろ彼は何も知らないのだから。
彼のことをあれこれ聞かずに無条件に味方になってくれる人間、そして今回の件では敵方に動きを漏らさないような……脳裏に1人ずつ思い浮かべた。
長岡先生の綺麗で上品な顔が浮かんだが即時に却下する。彼女は香川教授のためなら何でもしてくれそうだが、いかんせん緊急事態にはすこぶる弱い。彼女が関わったら、彼女が見つからないようにしようと努力すればするほど……発見されてしまう懼れがある、悪気は全くないのは認めるが。
柏木先生も、今でこそ香川教授の味方だと思うのだが、祐樹ほど柔軟性がない。医療現場――患者さんの命が懸かっている場合――ではなく「こっそり抜け出すため」の協力を頼んでも朴念仁な彼は――黒幕に密告したりはしないだろうが――あっさり断られてしまう可能性が高い。
となると……と、少しゲンナリしてある女性の顔を思い浮かべた。本当はイの一番に考えたのだが。緊急時であれば有るほど彼女の真価は発揮されるが、その分身体で――もちろん、おかしな意味ではない――借りを返さないといけない人物だ。しかし、背に腹は変えられない。頼んで承知した時のニンマリとした笑顔が――思い出したくはないが――脳裏に浮かぶ。救急救命室の阿部師長だ。彼女なら素晴らしい度胸と機知で教授自身を病院から出してくれる可能性は極めて高い。彼女に頼ってみようと清水の舞台からバンジージャンブする覚悟で決意した。
あくまで喩えだが。何故飛び降りないかというと、あの高さから飛び降りれば死亡率はほぼ100パーセントだ。投身自殺の時にはクッションとなる車の屋根や植え込みの木……こういうもので一回衝撃を回避すれば生存率が劇的に上がる。しかも下の地面は――祐樹のおぼろげな記憶によれば――コンクリートだった。せめて土だと衝撃は弱まるのだが……。せっかく一大決心をして彼に真摯な胸の内を告白しない内に死んだのでは、死んでも死に切れない。
どこのコンビニでも同じだろうが、レジは入り口から見えるところに設置されている。おまけにガラス張りだ。車中の人間が下りて来ないのは救いだが、整髪料などを購入したところを目撃されれば、類推で祐樹が髪型を変えるかも……と予測されてしまう。
こっそりと一番奥のレジに並ぶ。
「こちらは紙袋で包んでもらえませんか?」と申し出た。パートらしい30代くらいの女性店員は微笑を浮かべた。その微笑が長いので、内心冷や汗モノだった。心臓も鼓動が早い。
「済みませんが、急ぐので」
イライラしているのを気取られないように微笑すると従業員は頬がますます赤くなる。
しかも瞳は祐樹に固定されており、レジのバーコードリーダーは手に持ったまま宙に浮いている。何かあるのだろうか?と動悸がますます早くなる。こんなにドキドキしたのは、生まれて初めてゲイ雑誌を買った時以来だ。
「あのう」
そう催促の声を掛けると我に返ったように女性は全ての商品…と言ってもゼリーの栄養補助食品と○NOだけだったが…をレジに通した。
何だったんだ、あれは…?といささか憤慨しながら店を出る。そう言えばお釣りを渡す時もイヤにゆっくりとした動作だった。まあ、心当たりはないこともないが。
医局に戻り自分の机に座る。10秒チャージ――だったと思う――のCM通り秒単位で昼食とも言えない昼食を済ませた。今日はいつもの香川教授の手術時間も相当早いが、その彼のベスト記録を上回るスピードで手術が終ったので、午後から鈴木さんを救急救命室に連れて行く仕事には早いだろうと判断する。
今は入院患者さんの昼食時間だ。しかし、助手の山本センセがまたまた医局の医師と御見合いパーティの戦果を話しているのも――要するにどれだけの女性がホテルまで付いてきたかという話だ――聞くに堪えない。
紙袋に入れてもらった整髪料を試してみようかと思いついた。今まで使ったことがなかったので。ついでに煙草も吸いたい……と祐樹が発見した中で一番良い場所に向かった。そこは小さく目立たない神社で、祐樹は知らない名前の神様が祀ってある。この街には小路にもところどころにこういうスポットがある。
神社に祀られる神様は「古事記」や「日本書紀」に出てくる神様が多い。受験の時に古文や漢文も勉強したが、奈良時代の文法と平安時代の文法は違いすぎるので「古事記」や「日本書紀」は読んだことがない。
小さいが参拝者は多いのできっと由緒やご利益のある神様なのだろう。そのため境内にトイレもあり、座る場所もあるという今の祐樹には格好の場所だ。
まずは一服吸おうとベンチに座る。背中合わせのベンチから聞き覚えのある女性の声が流れてきた。この声は教授の秘書だ。
「……だからね、苦労してらっしゃるのよ。上に通そうとしても事務局でボツにされてしまうの。それを北教授のアドバイスを受けて書き直しの最中なの。何でまたM市民病院の執刀医可能な医師派遣に教授自らが行かれるのか私にも良く分からないのだけれど……黒木先生や他の……そうね柏木先生辺りで十分だと思うのだけれど」
M市民病院……そこは祐樹の母親が腎臓病で入院している病院だった。教授がその病院でも手術を考えている?
色々有りすぎて、思考回路がショートしそうだった。
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