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第十二章 第24話

 声から察するに教授の秘書の話し相手も同年代の女性だろう。どこの病院でも多分同じだろうが、ポジション的に同じような人が閉ざされたコミュニュティを作る傾向が強い。  そしてこっそり噂は流れていく、それも精度の高い。 「教授クラスが余所の病院に執刀に行くのは極めて珍しいわね」 「そうなの。ただウチの教授は『医師が都市部に集中している上に重度の心臓疾患患者の搬送リスクを考慮すれば医師が動く他はありません』と文書にして提出しているわ」  煙草に火を点けるのも忘れて話に聞き入ってしまう。 「そうだわね。来てはいるけど、ウチのボスは認めたがらないわよ。ただ、最近の文書は何だか説得力が増して来たけれども……」  ウチのボス……は事務局長だろうか?とすると教授の秘書と話している女性は事務局所属なのだろう。 「ああ、あれはね、他の教授に指導を仰いでいるの」 「ああ、分かった。そんなことが出来るのは……」 「そう……お察しの通りよ」  笑いを含んだ声がする。 「破天荒な教授がまた1人増えるわけね。お偉いさんはまた焦るわね。ああ、もうこんな時間……そろそろ行くわ」 「あら、私も。ランチタイムの終了時間ギリギリ」  2人が立ち去る気配がした。破天荒な教授……と言えば一番に思い出すのは、北教授だ。  他は皆、大学病院の医師が国家公務員だった頃と同じメンタリティの持ち主だと風のウワサに聞いている。  そういえば、救急救命室の北教授に香川教授は何か相談していたな……と今更ながら思い出す。確か書類がどうのとか。それに、祐樹が知っている中で抜群の記憶力を誇る彼が母の病院の名前を二回も聞いていたことも。  それに関係があるのだろうか……と思いながらポケットから携帯用の灰皿を取り出し煙草に火を点けた。煙を深く吸い込んでから、救急救命室の阿部師長の珠玉の言葉――あれもこれもしようとしない。最優先ですべきことを見極めて1つ1つ片付けて行く。それがコツよ――を自分に言い聞かせた。資格は自分の方が上だが、キャリアが違う。流石に修羅場を経験した人間の方が実戦では強い。  M市民病院のことよりも、祐樹と教授が尾行されずに杉田弁護士の事務所に無事にたどり着ける方が優先順序は高い。  この小さな神社の境内には公衆トイレがある。煙草を吸い終わるとトイレに入った。他に人がいないかを確かめて。そこにはくすんではいるが鏡があるので前髪を上げてみる。  先ほど購入した整髪料を試してみると、自分でも驚くくらい雰囲気が変わる。これでジャケットを取って、病院の封筒――例えばレントゲン画像などを掛かり付けの病院に持って行く患者のフリをして正門から出る。正門前にはタクシーの長い列が出来ている――患者さんにはタクシー利用の人も多いので――それに紛れて脱出は出来そうだ。教授は同じ方法ではダメだろうが。  祐樹も時計を見る。入院患者さんの昼食時間は済んでいるので鈴木さんに付き添って救急救命室に行こうと思う。主治医としてはボランティア活動の初日くらいは付き添わないといけないだろうし、その上阿部師長に教授脱出のアイデアを出来れば授けて欲しかった。  髪の毛を水で洗い整髪料を落とす。髪が濡れているが歩いているうちに乾くだろう。整髪料をポケットに入れて医局に戻った。教授宛てにメールを送ることにする。 「鈴木さんを救急救命室に連れて行くこと。そして、阿部師長からの指示があったら是非それに従って欲しい」とだけ書いて送信した。病院内でしか回線はつながっていないが、逆に病院の内部の人間で、かつシステムに詳しい人間なら盗み見ることは理論上、可能なハズだ。そうなると迂闊なことは書けない。察しの良い彼ならそれだけで分かってくれるだろう。  白衣を着て鈴木さんの病室に行く。驚いたことに、鈴木さんは満面の笑顔で片手にノートパソコンを持って待機していた。 「柏木先生と仰るのですか?昨日の先生に待ちきれずに結果を伺ったら……田中先生の口から正式なことは伝えますが、ご希望に添える方向で……と漏れ聞きました。先生、お手伝いさせて下さい」  鈴木さんから見ると子供の年代の祐樹に丁寧に頭を下げる。北教授との邂逅が余程嬉しかったのだろう。 「お具合は如何ですか?一応基本的なチェックはしますね」  彼は重度の心臓疾患があるようには見えないほど元気そうだ。数値もそれを裏付けている。  彼が持っているパソコンのことを聞いてみる。驚いたことに昨日、救急救命室で使用した物品を記憶している限り入力してあるという。流石に一代で上場企業に上り詰めた会社の経営者だけのことはある。世の中には多彩な人材で溢れていることをつくづく実感した。  病室担当のナースも香川教授が話を通していてくれたらしい。鈴木さんはベッドから解放され二人して救急救命室に向かった。祐樹の回りは教授を筆頭に皆仕事が速い。見習わなければならないな……と思う。  救急救命室でも問題なく迎え入れられ、早速鈴木さんは作業を開始していた。物品担当のナースとパソコンの画面を見ながら相談している。そこに阿部師長が姿を見せる。視線で訴えると、彼女の個室に通された。 「今日、事務所に行くんでしょ?聞いてるわよ」 「それでお願いがあるのですが……」 「お礼は……分かっているわよね」  予想通りの答えだった、笑顔までも。 「はい。話せば長いのですが…」 「田中先生、ココをどこだと思っているの?理由なんか関係ない。して欲しいことを結論から言う。出来るか出来ないかは聞いてからの話」  キビキビテキパキと指図する阿部師長に教授をスタッフ通用門と正門以外から出来れば車でこっそりと脱出する方法を尋ねた。 「何だ、そんな簡単なことなんだ。もっと難しいことかと思っていたわよ」  事も無げに笑われ、彼女の奥深さを知る。詳しい方法を知りたかったが。彼女は悪戯っぽく笑い、後のお楽しみと言うばかりだった。  尾行の一件を杉田弁護士に一刻も早く相談したかったので、阿部師長に鈴木さんを託すと、先ほど思いついた方法で病院を脱出することにした。もちろん早退届けは出してある。  無事にタクシーに乗り込んで、後ろを見てもセドリックの影はない。一安心して、座席にもたれる。彼の涼しげな笑顔が脳裏に浮かぶ。杉田弁護士の開示請求が無事に届いていて、誰が星川ナースの黒幕かが判明すれば……、想いの丈を告白しよう。その時、彼はどんな顔をしてくれるのだろうか?あの笑顔が更に輝くととても嬉しいのだが。  杉田弁護士事務所で何が待っているかはこの時の祐樹には知るよしもなかった。

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