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第十三章 第1話

「あのう…お願いがあるのですが」  祐樹はタクシーの運転手に声を掛けた。乗り込む時は周囲の様子しか窺ってなかったので運転手がどんな人かまで気を回すゆとりがなかったが。白髪の具合で多分初老の男性だろうな……と思う。 「はい?承ります」  京都のタクシー会社は社員教育が徹底している。祐樹が偶然乗り合わせたタクシーもその1つのようだ。 「少し理由が有りまして。もし黒いセドリックがミラーに映ったら教えて戴きたいのですが」 「はい。了解致しました。………ですが今、バックミラーにセドリックは映っておりません」  やはり社員教育が徹底しているのか理由などは詮索してこない。とても有り難かったが。ただ、京都の人間は他の地方に住む人間と比較して他人のことをあれこれと詮索しない代わりに、よほど心を開かないと内心をさらけ出さないという特徴を持つと聞いているが。  杉田弁護士の事務所が入っているビルの玄関で車を停めた。あれから運転手さんはバックミラーをよくチェックしてくれていた。黒いセドリックは当然お眼に掛かったが――ありふれた車種なのでそれは仕方がないだろう――すぐさま離れて行く車しかなかった。それは祐樹自身がしっかり確認した。ついでにナンバープレートも見られる限り見たが、覚えのある番号は無かった。  どうやら尾行は撒けたらしい。杉田弁護士の事務所は、烏○御池にある。一帯を見回せばたくさんの弁護士事務所の看板が掛かっていたのでそういう地域なのだと納得する。その中でも一際立派な事務所だった。   権威主義のウチの大学が依頼するような有名な弁護士だったのだなと改めて思う。ゲイ・バーで見かけた時は普通の中年男性にしか見えないのが。  念のために辺りを見回し、自分に注目している人間がいないかを確認してから弁護士事務所に入って行く。  エレベーターを降りるととても立派な観葉植物の鉢植えがエレベーターからすぐのところに飾ってあるのが印象的だった。観葉植物のアーチのようだった。  それをくぐるって少し歩かされたところに受付のスペースがあり、美人ではないが感じの良い中年女性が出迎えた。名前を告げると応接間に案内され、コーヒが出される。と同時に杉田弁護士が入室してきた。 「久しぶりだね田中先生、香川教授は?それに約束の時間よりも早いようだが……」  ミルクを目の前にした猫のような瞳で聞いてくる。そういえば、杉田弁護士には別件の報告があったな……と思う。そちらを知りたいのだろう。 「ご多忙中誠に済みません。少しご相談したいことが有りまして…」 「この前の話?何か進展あったのかい?」  この人はとても楽しそうだ。「好奇心、猫を殺すと言いますよ」と言いたかったが、恩人を前にそんなことは言えない。 「いえ、別件で……少々込み入っています。この前の話は……先生の推論通りでした」  ほほうという顔をした。もっと聞きたそうな杉田弁護士に釘を刺すつもりで言う。 「昨日から厄介なことが……。教授の耳にお入れしたくないのでこうして早く参りました」 「その前髪を見れば……何となく分かるような気がするが。済まない、今『保証債務履行請求裁判』の答弁書を作成している最中でもう直ぐ終わる。それまでは待っていて貰えると有り難い」  祐樹が礼を言って頷くと杉田弁護士は姿を消した。恐らくは執務室と応接室を分けているのだろう。彼は多分自分の仕事を済ませてから来るのでまだ時間は有る。本棚には六法全書などの法令集から専門書や判例集などの書物が装飾品のように並べてある。実際、装飾用だろう。この部屋には観葉植物はない。他の装飾品も飾っていない。  六法全書だって職業用に良く使うだろうから、こんなに綺麗な状態のわけはない。医療裁判についての本が目についたので時間つぶしにページを繰った。が、「乙」だの「甲」だの普段見慣れない文字ばかりで、それでも、普通の状態なら頭に入るだろうが、今は色々な意味で動転している。文字の上を目が滑っていっているといった感じだった。 「お待たせして済まない。お、医療裁判の本か。職業柄だね。高名な香川教授の訴訟代理人にもしなれることがあったなら、この業界でより一層名前を売れるのだが……彼は訴訟には巻き込まれないだろうな」  その口調がイヤに自信に満ちたものだったので好奇心が勝ってしまった。先ほどの心中のセリフを言わないで良かったと思う。 「いえ、こちらこそ、時間よりも早くお邪魔してしまい、申し訳有りませんでした。でもどうして香川教授が訴訟に巻き込まれないと?」 「やはり、恋人のことは心配かね?」  奇妙な笑いを浮かべるな……と思ったら、その笑い方は阿部師長そっくりで。笑顔が伝染するほど逢っているのだろうなと思う。しかし、阿部師長は恋人というか婚約者候補の男性にもあんな笑みを浮かべるのかとフト可笑しくなった。 「まだ、恋人じゃないですよ。何せ告白していませんから……告白しても振られる可能性も有りますし」 「振られないと私は判断するね。早く告白してしまうことをお勧めするよ」  彼は真顔になって断言する。彼の判断の根拠は知りたかったが時間がない。ただ、その言葉はとても嬉しかった。祐樹も早く告白したい心境だったし、振られたくはなかったので。 「……で、彼が何故訴えられないかの理由は2つ。彼は手術前に十分かつ真摯な説明をしていて患者さんからの信頼を十分に勝ち取っているはずだ。もう1つは、専門が心臓外科手術だからだよ。心臓の手術で術死が起ってしまっても、遺族はそんなに根に持たない。何故か分かるかね?」 「いえ、分かりません」  正直に答える。杉田弁護士は呆れたように笑った。 「正直だね。多分田中先生は1番目の理由だけで納得したのだろう?」  図星だった。教授は家族にもムンテラ(病状説明)の時間を十分に割いていることは知っている。手術同意書に家族の署名捺印を貰うまでにリスクの説明も十分している。それに家族の縋るような目に誠実な瞳で対応している場面も見たことがある。 「2番目の理由は彼が心臓外科の専門医だからだ。田中先生が素人だったとして、『心臓の手術を受ける』と言っている人と『盲腸の手術を受ける』と言う人のどちらを深く心配するか?答えは前者だろう。心臓の手術は命に関わる可能性が高いので、手術中に亡くなっても場所が場所なだけに皆は寿命だったと判断する可能性がすこぶる高い。それは分かるだろう?遺族が納得すれば訴状を裁判所に提出しようという気にはならない」  きっと裁判所でもこんな顔と声で話しているのだろうなと思わせる顔だった。と、思い返したように杉田弁護士は言った。 「銀行からの開示は来た。もちろん先に読んだが、今報告するかね?」 「いえ、それは教授がいらしてからで。実は昨日から私だけに尾行が付いているようなのです」  途端に難しい顔になった。 「どうしてそれが分かった?」  昨日からの経緯をつぶさに報告する。杉田弁護士の顔が話の進行につれどんどんと険しい顔になっていく。ホテルに泊ったと言った時、ホッとしたような笑顔を浮かべたのが印象的だった。だが、何故ホテルだと安心するのだろうか? 「田中先生……、それは少し危険な事態だよ。それは聞き捨てならない。ここに来るまでは尾行されてないだろうな?それと、今日そのスボン以外で身につけ続けているものは?」  顔つきと口調がドラマの中の職務質問をする刑事のようだった。祐樹が懸念していたよりも遥かに深刻な事態のようだった。  彼は大丈夫だろうか……と案じてしまう。  

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