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第十三章 第3話

 そこにノックの音がした。 「どうぞ」 「来客中、誠に申し訳ありません。緊急だと仰る男性が……」  この声は先ほど受付に居た女性の声だ。杉田弁護士が入室の許可を与えると、祐樹に一礼してから小声で何やら囁く。 「分かった有り難う。それは待っていてもらってくれ。それと……ノートパソコンを持って来てくれないか?」  そう言うと彼女は感じの良い笑顔を祐樹に向けて完璧な――少なくとも祐樹にはそう見える――ビジネスマナーで静かに退室する。 「ノートパソコン……まさかそれでハッキングを?」 「いやぁ、田中先生の発想力は面白いね。いや、ハッキングは上には上がいるのでそんな危険なことはしない。と言うより出来ないな、私のパソコンスキルでは。  阿部師長にメールをね……」 「携帯電話からすれば良いのでは?」 「それが、最近老眼かな…小さい携帯電話のメールは打ちにくいので、パソコンがある時は専らパソコンからだ」 「教授がより怪しまれないように病院を出る手段の打ち合わせですよ……ね?」  有能さは心の底から分かったが、どこかズレているところもある杉田弁護士だ。今の祐樹は教授のことしか考えられない。阿部師長と杉田弁護士が愛を育むのは勝手だが、それは自分達の知らないところでして欲しいと思う。 「いや、愛の……」  祐樹の瞳の光が変わったのを敏感に感じ取ったのだろう。 「なんて、こんな時にはしない。香川教授の件だ。もちろん。あはは」  最後の笑い声が怪しすぎたが、シカトでスルーすることにした。  再びノックの音がして、パソコンを持って入って来た。 「お電話です。来客中だと申し上げたのですが、名前を言えば分かると仰られて……」  済まなそうに祐樹に向かって頭を下げる。彼女は有能な秘書――と言うのだろうか?弁護士事務所でも――なのだろう。 「ああ、あいつだな。相変わらず仕事が早い」  応接机――と言っても、香川教授の部屋にある低いソファーとテーブルではない。ここで依頼人からのメモなどを取ったり資料を広げたりするのだろう。重厚な木ので出来た机だが、書き物をするのにうってつけの高さだった。その机の端に電話がある。その電話を取り上げて話し始める。  先ほど煌びやかな肩書きを持った警察キャリア官僚に電話との電話だろう。でなければ祐樹の目の前では話さない。医師にも守秘義務はあるが弁護士にも同じ義務があるのだから。 「ほほう、そうか。で、その興信所について組対は何か掴んでいるか?」  「そたい」とは従来の暴力団の悪行が多岐に亘るために警視庁だか警察庁かの組織編制で暴力団関係を一括りにして扱う部署のことだったよな?とおぼろげな記憶を辿る。 「なるほど、良く分かった。流石に『率研』のリーダーだけはある。仕事早いな……またこのお礼は改めて。ではまた」 「やはり、そっち関係の興信所だったよ。警察も情報を掴んでいたそうだ。これで仕事がやりやすくなった」  先ほどの深刻な表情は綺麗さっぱり顔からなくなり、ゲイ・バー「グレイス」で良く見かけた――多分その表情が彼の地顔なのだろう――のんびりとした顔になった。  そっち関係だと何故「仕事がやりやすくなる」のか、祐樹には全く分からない。余計に怖いような気がするのだが。ダイレクトに聞くのは憚られて、二番目に疑問に思ったことを聞く。 「あのう…『りつけん』って何ですか?法律研究会ですか?流石ですよね。講義だけでなくクラブ活動まで法律の勉強をされていたなんて…」  その略しか思いつかないのでそう言ってみたのだが。返って来たのは爆笑だった。 「自由時間にわざわざ法律の勉強をする人間に見えるかね?」  「見えない」と答えたかったのだが。しかし今、縋れる人はこの人しか居ない。曖昧に頷くに留めた。 「確率研究会だよ。って…ちなみに何の確率を研究していたと思うかね?」  職業柄数字は好きだが、確率を研究して役に立つこと……と考える。最愛の彼と一緒にテレビで観た「降水確率」しか思い浮かばない。 「降水確率……でしょうか?」 「どうして、文系の我々が降水確率の研究をしないといけないのかが理解不能だな。論理的に無理がある。流石は理系人間らしい思い付きだが。確率で儲かる仕組みを調べていた」  例の阿部笑いを浮かべる。確率で…儲かる…?さっぱりワケが分からない。 「確率でお金儲けが出来るのですか?」 「ああ、出来るね。まあ、田中先生の世代だと麻雀はしなかっただろうな……我々の世代の学生は麻雀が娯楽だったから、それで勝つ確率を研究しようとする会、略して『率研』」  そういえば先輩医師が近頃の若いモノは麻雀を知らないとぼやいていたのを思い出す。きっと世代の断絶だ。  パソコンを見ていた杉田弁護士は「優子さんからのメールだ」と心の底から嬉しそうな顔をした。2人の愛情は深まっているらしいが、今の祐樹には2人を祝福するだけの余裕はない。 「阿部師長は何と?」 「『田中先生が言い置いていったよりもトリアージが上がった。トリアージレッドなので、くれぐれも細心の注意を』と打ったところ、『了解。全て任せて』だと」  この用語の使い方からも彼らの絆を感じる。そもそも「トリアージ」は救急救命の医学用語なのだから。ちなみに危険度が一番高いのがレッドだ。 「先ほど仰られた、仕事がやりやすくなるとは?」 「ああ、その話か……ここが関西で良かったな。東京だともっと手間が掛かるから。大丈夫。この件も直ぐにカタが付く。ただし、数日間は、田中君の部屋に香川教授を入れない方がいい」  関西だと良かった?そして教授を自分の部屋に入れないという理由は、多分盗聴器の存在だろうが……祐樹が暴力団まで絡んでいるようなことに巻き込まれて――しかも、彼が原因で――という件を話すと彼の精神状態が心配だ。絶対にこの件は解決するまでは彼に言えないなと思った。  しかも、どうして杉田弁護士はそういう後ろめたい組織がバックに付いている興信所だと分かったのだろうか?  彼に聞かれないように早退までしてこの事務所に来て良かったと思う。疑問点は、教授が到着しないうちに全て聞きたかった。

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