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第十三章 第5話

「ご無沙汰申し訳ない。今日はお願いがあって電話した。そちらの組長の弱みの二つや三つ握っているだろう?いや……別に答えなくてもいいが。  それで、○○興信所に圧力を掛けるようにお願いして欲しいのだ。調査対象は田中祐樹、K大学病院勤務の医師だ」  知り合いの弁護士事務所に電話しているらしいのは前に座っている祐樹にもその弁護士に繋がる前から分かったが。組長に圧力? 「え、一週間待って欲しいだって?いや、こちらも急いでいるのでね……せめて3日にならないか?ほら、法務省の内部情報――誰と誰が犬猿の仲だとか――の件とH県警の件を流した恩を忘れないで欲しいな…どうせ、先生のことだから自分の手柄にしているのだろう?本当のことを密告出来る立場だってことを忘れないで欲しいな…  何、旅行中?そんなの電話一本で済む話ではないか?  ……そうそう、宜しく頼んだよ。アノ興信所の件は警察も実態を掴んでいるので気をつけて」  何やら恐ろしい電話のようだ。受話器を置くと杉田弁護士は、晴れ晴れとした表情で祐樹を見た。 「これで大丈夫だと思う」 「ちなみにどこに電話を?伺っていると弁護士の事務所のようでしたが……」  何だか自分の知っているのほほんとした杉田弁護士とは別人のような真剣な顔がこの場合は少し恐ろしい。 「そう、弁護士事務所だよ。ちなみに田中先生はコチラについて良く知らないだろう?」  指で傷を表現する。 「もちろん知りません。説明をお願い出来ますか?」 「ああ、ここが関西で良かった……と言ったがその意味だ。こちらは山◯系のエダ――末端組織だな――が非常に多い。それは知っているだろう?」  最も有名なソノ筋の名前だ。大人でニュースを見ている人間だったらほとんど100パーセントは知っているハズのビック・ネーム。というより、暴力団と言えばこの組を連想するのが一般的ではないだろうか? 「先生は、そんなスジとも関係があるのですか?」 「ないよ。あると、もっと話が早いのだが、流石にそんな危ない橋は渡らない。ちなみに、ソノ筋の人間の方が訴訟に巻き込まれやすいのは分かるだろう?」  飄々とした話し振りだった。ますますこの弁護士の人脈の太さに驚く。杉田弁護士の顔はいつものようにのほほんとしていて。あまり切迫した雰囲気を醸し出していないのが却って凄みを感じさせる。 「考えてみるとその通りですね」 「そう、ソノ筋の人間は警察のご厄介になることも多いし、倒産した企業の債権――借金を取り立てることの出来る権利のことだが――回収なんかの仕事もする。10億程度の債権ともなると人の1人や2人の命が奪われることも多い。何だかんだで弁護士が必要だ。  かといって、反社会的な団体と関わった弁護士は、依頼を受けた瞬間から一般人の仕事はピタリと来なくなる。田中先生だって、そういう団体の弁護をしている弁護士に自分の訴訟なりトラブルなりを任せる気にはならないだろう?その意味では弁護士の資格を持ったそのスジの人間と表現することも出来る」 「そういえば……そうですね……」  今まで全く考えたことがなかったが。杉田弁護士の言葉でそういうケースを想定してみる。弁護士事務所に来るのは初めてだが、その事務所にソノ筋の人間が出入りしているとなれば他の弁護士事務所に行くだろう。 「だが、ソノ筋の人間は弁護士を必要としているし、何しろそういう組織は資金力だけは有るからな。さっき電話した弁護士は知らぬが仏で最初は知らないうちにソノ筋の依頼を受けてしまってからは、一般の依頼人は全くなくなった。  この仕事だって顧客が居なければ収入はなくなる。それで仕方なくあの組の依頼ばかりを処理することになった。いつの間にかアチラ側の人間だという評価が定まってしまい、この業界からも異端視される結果となった。だからあまり同業者の友達は居ないのだが……僕はあまりそういうバックを気にしないので友達付き合いしているがね。それにそういう社会との接点がある方が仕事上もやりやすいということも有ってね」  物事に拘らないというのはその通りだ。ゲイ・バー「グレイス」でも色々な相談を受けていたし、もともとがあまり細かいことに拘らない器の大きい人間なのだろう。弁護士にも色々な人が居るのだな……と改めて思う。 「仕事上もやりやすいというのは?」 「まさに田中先生の依頼なんていうのはその典型だよ。ソノ筋だって、最近は警察だの訴訟だのに持ち込まれることを嫌う。昔、警察は『民事不介入の原則』というのが有って、犯罪以外のトラブルには介入出来ないものだったのだが、法律の改正によって最近ではソノ筋絡みの件では被害届けが提出されれば動けるようになった。そのためにも弁護士は絶対必要なので弁護士費用をはずむ代わりに専属の弁護士に色々な折衝を任している。彼も法律改正前は、色々な便宜をソノ筋の人間に図っていたのだが。――例えば、その人間が他の組に命を狙われた場合など、どうすれば良いか分かるかね?」 「……海外に逃亡でしょう……か?」  いくら考えてもそんな答えしか思い浮かばなかった。杉田弁護士は例の阿部師長笑いを浮かべた。 「普通はそう思うだろうが……発想の転換で、刑務所の中に入るのも安全なのだよ。初犯とソノ筋の人間とでは入所する刑務所が違うし、ヒットマンも塀の中には追って来られない。ソノ筋の人間は一般人と価値観が違うから塀の中に入っても人生のマイナスにはならない。命を狙われるよりも、有罪判決をもらって懲役に行くことを望んだ場合、有罪を勝ち取る――というと変な日本語だが――法廷戦術をレクチャーしたり、挙句の果てにはソノ筋の人間を集めて刑法や刑事訴訟法を解説したりする仕事までこなすようになった。  仕事を離れればいいヤツでもあるし……。何事も持ちつ持たれつさ。  そいつは、今や現組長の顧問弁護士だ。東京ではまた事情が違うのだが、関西ではあの組織が絶大な力を持っている。例の興信所もあの組のエダが経営しているということを聞いた。あの世界では『親分が白いと言えばカラスも白い』という世界だ。だからあの弁護士から組長に圧力を掛けて貰えば、真相を掴んだところで依頼人には適当な報告書をでっち上げて終わりさ。ただ数日の時間は掛かるがね。田中先生の自宅に盗聴器が仕掛けられていないか調査することも出来るが、発見して取り外しても、また仕掛けられるのは目に見えているし、ここは大人しく組長からの圧力を待った方が賢明だ」  成る程な……と思った。杉田弁護士に相談してよかったとしみじみ思う。祐樹1人では絶対に解決出来ないレベルの問題なのだから。  後は彼を数日間祐樹の家に来させない言い訳を考えなければならない。祐樹の怪我――と言っても今はバンドエイドで十分なくらいの程度だが――の時の彼の心配ぶりを考えれば、今回の件では更に心配を掛けそうなので。そうなれば、手術の手技にも影響が及んでもおかしくない。  それだけは避けたい事態だった。  そろそろ、彼も仕事を終え、こちらに向かっている時間だ。  阿部師長が上手く取り計らってくれればと願わずにはいられない。今のところは彼には尾行は付いていないようだが、多分狙いは彼だろう。そうなると動向を探られるのは望ましい事態ではない。

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