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第十三章 第6話
「しかし、あんな抽象的な言い方でその弁護士の先生は分かるのでしょうか?」
先ほどの電話の話を逐一思い出しながら言った。杉田弁護士は余裕の表情だ。
「分かるよ。君達の世界でもそうだろう?優れた外科医ほど手術前の会話は少ないと聞いている。CT画像などのデーターを見て『術式はこうこうで』で通じるそうじゃないか?」
「それはそうですが……」
「司法の世界も良く似ていてね。慣れた者同士だと最低限の言葉で通じる。却って法律のことを良く知らない顧客に説明する方が厄介だと思うことがある。その点、田中先生は駆け出しとはいえ外科医の端くれだ。あまり質問をしないで全て任せてくれるのは有り難い。これも職業上に培った知恵なのかもしれないな。優子さんもそうだが…手あの人も経過説明はうっとうしいと言って原因と結果だけを知りたがる」
優子さん…というのは、阿部師長の名前だ。そういえば、香川教授をこっそりと病院から脱出することについて相談した時に「何をして欲しいのか」だけを聞いてきたな……と思う。
あの阿部師長が請合ったからには香川教授は尾行ナシでこの事務所に着ける可能性は随分と高くなった。が、一抹の不安は残る。
「3日で、本当にカタがつくのでしょうか?」
祐樹の部屋に教授を入れないという計画は分かったが。彼に告白をしようとようやく決意した今となってはタイムラグを生むことは避けたかった。
「多分、つくと思う。今が何処かの組と抗争中でなくて良かった。もし、そんな事態なら末端組織の経営している興信所に圧力を掛ける暇などないだろうが……今はそんな事件が勃発しているとは聞いていないので。
開示書類は職務上先に見たが……相手は金に糸目はつけていない。例の興信所もかなりの高額の報酬で田中先生の秘密を探ろうとしている可能性は大きい。他に田中先生が何処かの御令嬢とか御曹司に横恋慕されて、そちらのルートで依頼された場合も可能性としてゼロではないが……最近は遊んでいないのだろう?『グレイス』でも見かけないし……」
阿部師長と順調に付き合っているのに、まだゲイ・バーに行っているのかと少々呆れた。
心外な気持ちが顔に出たのか、杉田弁護士は慌てたように言った。
「もともと、僕は田中先生のように引っ掛けるためにあそこに通っていたわけではない。あの雰囲気が好きで――何と言っても女性の甲高い声がしないのが有り難い――それに常連客の恋愛相談などを聞くのも好きだから通っているだけだ」
失礼な言い方だが何となく腹は立たなかった。そう言えば彼が男性を口説いているところは見たことがないな……と思った。杉田弁護士に深刻そうな表情で相談している相手は多々見てきたが。そんな男性も杉田弁護士と話すと、どこか吹っ切れたというか、肩の荷を降ろしたような顔で立ち上がり、盛り上がっている一団に入って来るか、店を出て行くのが常だったなと。
「もちろん、遊んでなんていませんよ。香川教授の着任以来、救急救命室での仕事は増えた上、教授の魅力が次第に分かってきたので他の男性とそんな関係になろうと思ったことは有りません。元カレも随分前に別れたきりですし、その彼は新しい恋人が出来て幸せに暮らしているとメールも貰いました。私生活でストーカされる覚えは全く有りません」
キッパリと言う。杉田弁護士はその言葉を上の空で聞いているようだった。全くもって不本意だ。
「……田中先生……この件は教授には内緒にしておくように僕に頼んだね。僕としては、全てを明かした上で彼の判断に任せた方が良いと思うのだが…」
真剣な表情で杉田弁護士はアドバイスをくれる。祐樹もそれは考えなくもなかったが。
「この傷、見て下さい」
「傷って、そのバンドエイドかい?」
右掌に貼ったバンドエイドを怪訝そうに見た。
「ええ、これは昨日の手術で、星川ナースが故意に教授にメスを逆さまにして渡した時に、咄嗟に動けた私が手で受けました。手術室のスタッフは皆、私の怪我が軽傷だと判断しましたが……どんな怪我であれ、手術中に素手を晒すのは患者さんの身体に雑菌が入るリスクがあるので退室するのが決まりです。それで退室したのですが……いつもはどんな事態にも冷静に対処してきた教授が、他の手術スタッフ全員が分かるような動揺を見せたそうです。
香川教授の手術成功率は、今のところ100%の成功率を誇っています。もし、私がソノ筋絡みの興信所に尾行されているということが彼の耳に入れば……彼の手技に狂いが出るかも知れません。彼には平常心で執刀医を務めて欲しいのです」
「……その気持ちも分からなくはないが……。田中先生の態度が変わったらそれこそ平常心を無くすのではないかね?」
「大丈夫だと……思います。私の負傷は咄嗟の出来事だったので、彼も驚いたのでしょう。開示請求で名前が分かったと仰いましたよね?彼が私の自宅に来るようになった切っ掛けは、『黒幕が分かるまで、1人で居たくない』ということでしたので……その黒幕が分かったのであれば最初の約束は果たされたのですから…」
祐樹個人の想いからすれば、もっと彼と一緒に居たい。だが、部屋に盗聴器が仕掛けられているかもしれない部屋に彼を招き入れることは出来ない。たとえ行為を全くしていないとはいえ、何も知らない彼が色々なこと――2人の関係や、黒幕が分かったということなど――を話す可能性は極めて高いので。杉田弁護士からの圧力がくだんの興信所に及ぶまでは彼を自宅に入れることは出来ない。正式な報告書――といっても山◯組の組長の口添えが有れば適当なでっち上げが作成されるだろうが――の前に中間報告として電話で報告される可能性だって捨てきれない。特に上客ともなれば。
杉田弁護士は心の底からと思われる溜め息をついた。
「やはり、文系人間の私には理解し難いな……。何も知らせずに部屋を追い出されるほうが彼にとってはショックなことのように思えるがね……」
「そうでしょうか?」
イマイチ杉田弁護士の主張が分からない。彼は「黒幕が分かるまで」という約束で祐樹の部屋に居候をしてきたのだから。あの祐樹的には痛恨の鍋を振舞って一晩泊まった時にも自宅に帰ろうとしていた。祐樹が引き止めなかったら本当に帰りそうだった。黒幕が分かった以上、彼との約束も切れると思っているのだが。もちろん、その後キチンと愛の告白をする積りではいるが。
その時、控えめなノックの音がした。杉田弁護士が応えると、受付に居た女性が何やら出番をトチった役者のような表情で立っている。
「お約束の香川先生がお見えになられました。こちらにお通し出来るのですが……」
「通せる」というのは彼が盗聴器付きでないということだろう。
「しかし……香川先生は、K大の教授……でいらっしゃるとお聞きしていたのですが……ご本人様もそう仰っていますが……しかし……」
表情の選択に困り果てた彼女を見て、
「私が確かめます」
立ち上がる。彼女は安堵した表情を浮かべ、祐樹を案内してくれた。廊下に佇む最愛の人の姿を見てその意外さ溢れる新鮮で魅力的な様子に言葉を失ってしまった。
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