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第十三章 第7話

 彼は祐樹の姿を認めると驚いたような顔をした。視線が前髪の辺りで彷徨っている。   が、その次の瞬間、困り果てたように……そして祐樹の反応を窺うかのように唇を微苦笑の形に刻む。 「とても、新鮮で……びっくりしました」 「私の年齢で似合うとはとても思えないのだが、阿部師長に『男なら細かいことを気にしない!』と一喝されてしまい……こういう格好で病院を出た」 「いえ、とてもお似合いです。学部生のようですよ……それも現役合格した」  彼の今の姿はお世辞抜きに若々しさに溢れた感じで、そして爽やかだ。  彼がもし、一般教養の講義で生徒の席に座っていても全く違和感を感じさせない佇まいだ。祐樹の表情を真剣に見入っていた教授は、祐樹の言葉に嘘はないと判断したのだろうようやく安堵の色を浮かべた。それまではどことなく心もとなげな瞳の光だったのだが。祐樹の賞賛の視線に嘘は混じっていないと感じたのだろう。 「祐樹も前髪上げたのだな……そちらの方が、賢そうな額が全部見えて……いいな」  幾分緊張を解いた彼はそんなことを言う。 「教授こそ、一般教養の大講義室の座り心地の悪い席に座って講義を受けていても、おかしくないです。まさかこんな格好が似合う大学教授が居るとは誰も思いません。でも本当に良くお似合いです」  彼は勤務時間中、前髪をジェルで後ろにまとめているが、今は自然に下している。前髪が落ちた姿は情事の後に見る機会も有ったのだが……その時は情事の甘い余韻が身体中に残っている時だ。  今は、ワケも分からず阿部師長に着替えを要求されて、仕事モードのままこちらに向かったので、彼の凛とした清潔な雰囲気での前髪が下りている姿がまず印象的だった。気になるのか時々前髪をかき上げている。すると、ジェルが十分に落ちきっていないのだろう、前髪が寝癖のように不自然に立つ。  彼の長く白い指が黒いが少しだけ茶色かかった柔らかい髪に触れたことによりふわりと落ちる髪が妙にエロチックな動きをする。 「そう……か?こんな格好をしたのは学生の時以来だ」  照れたように微笑する彼の笑顔は祐樹の反応に心の底から喜んでいるようだった。  彼の服装はいわゆる「イマドキのお洒落な大学生」というコンセプトでまとめられている。阿部師長の趣味なのか?それとも救急救命室の若いナースが知恵を授けたのかは分からないが。  半袖のポロシャツは二枚重ね着をしている。下は淡いピンクでその上から黒いポロシャツを着ているらしい。仕事の時はいつも長袖なの袖か手術用手袋で隠れているし、情事の時はむき出しの腕の長さとしなやかな細さが健康的に露出されているのが眩しい。手首の白さと細さが一際目を惹く。  ポロシャツはボタンを開けて着るのが流行りらしく、彼の鎖骨が半分覗いている。僅か奥には自分が付けた紅い情痕が隠れているはずで何かの拍子に見えないかと期待半分、心配半分だった。それだけで祐樹の心臓は動悸が激しくなる。  黒と薄いピンクのコットンのポロシャツも彼にはとても似合っていた。そして下半身は細身の何の変哲もないジーンズだったが、腰骨辺りでベルトで留めている。確かに彼のウエストサイズからすると少し大きいようだった。標準男性より少し細いウエストが腰骨のベルトのせいで強調されるのも祐樹の視線を釘付けにする魅惑に満ちていた。  彼の意外にある肩幅と細い肩の骨から細い肢体を包むポロシャツ……そして男性らしいシルエットを描くウエストラインが、そして、すんなりと伸びた長く形の良い脚は絶品だった。顔は言うまでもなく。  靴はいつもの革靴ではなく○イキの黒を基調に薄いピンクのロゴが入っている。  中々のコーディネイトだ。しかし、この服は一体、いつ揃えたのだろうか? 「教授、こちらです」  先ほどから目を瞠ってこちらを窺っていた先ほどの女性が納得出来ない……とでも言うように溜め息を1つ吐いた。もちろん呆れたというニュアンスではなく感嘆の溜め息のようだったが。 「先ほどから杉田弁護士と話しをしていたのはこの部屋です」  そう言って、ドアを開ける。杉田弁護士は、手に持っていた大型のファイルを落とすという実に分かりやすい驚嘆の吐露をしてくれる。 「お手数をお掛けして申し訳ありません」  教授が深々と頭を下げる。 「いやいや……しかしこうして2人並ぶと……今日は香川教授の格好がお洒落な大学生みたいなので、田中先生の方が年上に見えるねぇ。いやぁ、眼福、眼福」  そう言いながら祐樹の隣の席に座るように手で合図している。  教授は面映そうに可憐な秋の花のような微笑を浮かべている。とても微細な笑みなので、彼の心の奥底までは分からない。ただ控え目で儚げな微笑が印象的だった。暑苦しい夏の花ではなく、秋の可憐な花を思わせる清楚でいてどこか艶のある笑顔。 「ちなみに、その服はどうしたのかな?まさか新しく買う時間があったとも思えないのだが?」  杉田弁護士も祐樹と同じ疑問を持ったようだった。 「それが…阿部師長が若いナースに耳打ちすると、学部生の数人が大急ぎで救急救命室にやって来て――恐らくはかつて私が学生時代に手伝っていたように何らかの縁のある学生でしょうが…その学生と服を取り替えました。何を聞いても『ここでは私が法律よ』と言われ、さっぱりわけが分からなかったのですが」  物々交換とは……教授の服装の値段と等価換算出来ないくらいの安価な服だが――逆に学生の方は喜んでいるハズだ――尾行を撒くためにはこれくらいのことをすれば完璧だろう。 「ちなみにどうやって病院からこちらへ?」 「それは、阿部師長が、救急救命室用の駐車場――いつもは数台の救急車が停まれるようなスペースが有るだろうーーその一番奥にタクシーを待機させて、救急車専用の駐車場から直接ここに参りました」  ああ、成る程な……と思う。阿部師長が「簡単だ」と行った理由も分かる。彼女は重症患者が運ばれて来た時だけは駐車場から救急救命室に続く扉の前で待機していた。そのことも有って――普通、医師は室内で待機する――医師にしては死角とでも言うべき第三の入り口の件をクリアしたのだなと思う。  流石だ。まだまだ祐樹は修行が足らないなと思うが。ただ、杉田弁護士は黒幕が医局関係者だ言っていた。だが、医局の中で救急救命室に祐樹以上に詳しい人間は居ない。それでも思いつかなかった救急医療室の駐車場にタクシーを呼んでくれ、また、万が一、教授に付いていたかもしれない尾行者は完全に撒けたのだなと思う。  杉田弁護士もともすれば教授に視線を当てては祐樹に睨まれるといった不毛極まりない数回のやり取りの後、咳払いを1つ。 「今から私の元に来た開示書類をお見せする」  その言葉に祐樹はもちろんのこと教授も身を乗り出した。

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