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第十三章 第8話
ちょうどその時だった。部屋にノックの音が響いたのは。
杉田弁護士はビジネス用のノート型クリアファイルを閉じる。守秘義務を守るかのように。
「コーヒーをお持ちいたしましたが」
先ほどの女性事務員(?)の落ち着いた声だった。
「……ああ、どうぞ」
杉田弁護士は教授と祐樹の表情を確かめてから入室の許可を与える。
事務員はトレーに大きなグラスに入ったアイス・コーヒーを載せて、危なげのない足取りで入って来た。コースターを敷き、その上にグラスをそれぞれの前に静かに置いて、一礼して出て行った。
近くで見ると、本当に大きいグラスだった。マクドナルド――こちらでは「マクド」と言った方が通りは早いが――のLサイズのアイス・コーヒ程度の大きさだ。
「随分、大きめサイズのコーヒーを出すのですね」
祐樹はこの弁護士事務所に来てから、普通の大きさのコーヒーカップでコーヒーが出されて既に飲んでしまっていた。そのカップは興信所の件のアドバイスを貰っていた時に静かに下げられていたが。
「顧客の話が長くなりそうな時は気を利かせてこのサイズのアイス・コーヒーを持って来てくれる。私も顧客もずっと話しっ放しなので咽喉が渇くことが多いので」
隣の教授の顔をそっと見る。彼は初夏だというのにうっすらと汗をかいている。緊張のあまりだろうか?
「咽喉が渇いているので……戴いても構いませんか?」
彼が言った。杉田弁護士が頷くのを待って彼は一気にグラスの半分の量を飲み干す。ブールをあおっているような飲み方だ。だが決して下品な動作に見えないのは、彼のしなやかな形の良い腕と指がカップに良く調和していたのと、グラスのフォルムが綺麗なことだろう。Bから始まる英語ではなさそうなブランドの名前が見えた。
彼の白い咽喉が艶かしく上下するのについ見惚れる。フト気付くと杉田弁護士も同じ場所を凝視していて……すこしムっとした。杉田弁護士に咎めるような眼差しを送る。先生はヒョイと肩をすくめた。杉田弁護士も留学の経験があるだけにその動作は外国映画で外人俳優がしているのと同じだった。香川教授もアメリカ帰りだが、そういうアメリカ人のような動作をしているのを見たことがない。
そんなことを思っていた。次に彼のグラスを見た時は、氷だけが虚しく残っていた。
ずいぶんと咽喉が渇いていたのだな……と思う。祐樹は黙って彼のグラスを取り、自分のグラスと取り替えた。祐樹は特に飲みたくはなかったので。
彼は唇の僅かで優美な動きだけで祐樹に感謝の意を表すと、祐樹の分のグラスも半分ほど飲み干す。それで人心地が付いたように小さな――多分祐樹にしか聞こえない――吐息を零す。その吐息は簡単に彼の情事の時に漏らす満足げな色を帯びた吐息を連想させる。
杉田弁護士は先ほどの彼の白く細い首に魅入っていた表情を一転させる。そして、先ほどクリアフォルダーを広げる。ところどころに付箋が貼ってある。
「さて、開示書類なのだが……厄介なことが分かってね……、話が長くなりそうなのだが、時間は大丈夫かね?」
「時間は大丈夫です。しかし、その前に御手洗いをお借りして宜しいでしょうか?」
教授が言う。あれだけの量のコーヒーを飲んだのだから当たり前といえば当たり前の生理現象だ。
「もちろん。……この扉を出て、右に曲がって突き当たりのドアだ。表示で直ぐに分かると思うよ」
教授は会釈するとすらりと立ち上がり、ドアに向かって彼にしか出来ない優美ながらも早足の歩き方でドアノブを握ろうと上半身を少し屈める。
その時、彼の意外に広い肩幅から理想的なフォルムの背中……そして、彼の身体の動きに伴う腰の動きがまた祐樹の目を釘付けにした。ポロシャツなので身体のラインはそう露わにはならないが、肩幅と比べると随分細いウエストラインが絶妙のバランスを奏でているのがはっきりと分かる。
ベルトが腰骨の辺りで結ばれているだけに男性らしい長方四角柱でありながら、なまじ細いせいで余計に色っぽく感じる。しなやかな筋肉の動きが服の上からでも良く分かった。そのストイックかつ扇情的な様子が……不覚にも祐樹は場所柄もわきまえずベルトを外してみたい欲望がこみ上げる。
彼は後ろを振り返ることなく静かにドアを閉めて出て行った。
「抱きたい……と思っただろう?田中先生?」
例の阿部師長笑いを浮かべた杉田弁護士の言葉に絶句してしまう。祐樹は職業柄内心を隠すのには慣れているし、もともとがあまり感情を表に出すことが少ないタイプだと自負していたので。
「え……分かりましたか?」
「ああ、分かったね。あのベルトを今すぐ剥ぎ取りたい……とか思っていただろう?」
「そんなにあからさまな表情をしていましたか?」
杉田弁護士1人の前ならば別に内心がバレても構わないが、仕事場などでは断じて困る。この際確かめておこうと思った。
「あはは。図星か……実は僕も確信はなかった、先生の表情からは。ただ僕もそう思ったので、深い関係の田中先生ならきっとそう思うだろうと推測しただけだ」
半分は安堵、半分は自分でも理不尽だと思う独占欲が湧き上がってくるのを止められない。
「考えるのはご自由ですが、実行しないで下さいよ」
本気で睨んでしまう、理性はしきりに止めていたが。
「おお、怖い怖い。今の僕には優子さんという心に決めた人がいるので田中先生の恋人に横恋慕なんてしないよ。田中先生に密告されれば、僕は優子さんを失うのだから」
「本当です……よね?」
「本当だから、そんなにキツい目で睨まないでくれ。僕だってソノ筋の人間と会う機会もあるが……それよりも迫力がある」
褒められているのか貶されているのか分からなかったが、祐樹も尖った目つきにはいささか自信があったので、納得することにした。「恋人」と言われてむやみに嬉しい気持ちになった。まだ恋人ではないが。
「お待たせしました」
そう言って彼が部屋に戻ってくると、部屋の雰囲気が五月の森林のような爽やかさに満ちる。
「話に戻るが……これがクレジット会社の返済記録だ」
「成る程……3月に50万、4月に100万、5月に200万の返済で、完済済みですか……。一介の研修医には想像を絶する収入ですね……ナースの待遇が研修医よりは良いとはいえこれはやはり……」
大手信販会社数社の借金が綺麗に返済されている。長岡先生が指摘していたブランド物のバックを購入出来たということは、もっと多額の金額が銀行口座には入金されているハズ。教授も当然気付いたらしい。
「そうですか。で、銀行の方の記録は?」
杉田弁護士の顔が曇る。
「それが……少々困った事態でね…」
隣の彼が少し身じろいだ。祐樹の心が揺れるシトラス系の香りがほんのりと漂ってきた。
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