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第十三章 第9話
「こちらがUF○銀行の口座の記録だ」
付箋を貼ったページを開いて、ファイルから書類を取り出す。そのファイルには、銀行の封筒や送り状が挟んである。こういう物を取って置くのが弁護士業務なんだな……と思う。
大きく、部外秘の朱色のハンコが押してある開示書類。銀行の頭取の名前と印鑑まで押してある。
そういえば、祐樹も教授も表向きは部外者だ。大丈夫なのだろうか?切れ長の目を大きく開いて書類を見ていた教授も同じことを考えたらしい。
「厳密には我々は当事者ではないですよね?これは表向きには星川ナースの債務調査なのですから……。それなのに、私達に見せても大丈夫なのでしょうか?」
形の良い眉を顰めて教授は言った。
「その点に抜かりはないよ。優子さん……いや、『星川』ナースだったな……からは委任状を貰ってある。『この件は香川聡と田中祐樹に一任します』という。もちろんハンコも……何だかやたら高そうなハンコだったが……代理人契約時と同じものを捺印して貰っているので、表向きは『星川ナースの委任を受けた』御二人にこの書類を見せることには法的な問題点はない。
万が一替え玉だったと露見しても知らなかったで済むので、弁護士会から退会処分を受けることはないだろう」
その説明を聞いて、隣に座っている彼が安堵の溜め息を密やかに漏らす。
「では、拝見させて頂きます」
「私も見ていいですか?」
何も付けていない教授の髪の毛と服装からは真面目でそれでいてどこか金の雫を纏っている、そんな綺麗な学生のような顔を息を詰めて見詰めながら祐樹は彼に言った。
「もちろんだ」
2人で同じ書類を覗き込む。どうやら通帳に出入金記録を印刷すると通帳に記載される記録と同じような体裁の書類だった。
その文字と数字を辿って行くと、3月1日100万入金「キムラ コウヘイ」4月3日200万入金「ヤマモト ユウジ」4月27日入金「キムラ コウヘイ」400万入金という文字が目を刺す。他の印字は病院からの給与振込みなどで出金記録は先ほどの信販会社の入金記録に当てはまる数字と…100万単位で下されているものが数件有った。
「キムラ コウヘイとヤマモト ユウジという人物に心当たりは?」
祐樹は山本センセの名前が出てくるのではないか?と密かに思っていたのでそれほど驚きはなかったが……木村講師の名前まで出てくるとは思わなかった。講師は研修医の祐樹にとっては雲の上の存在なので、話したことはないが、真面目な人だという噂は聞いていた。
教授がいつもの冷静かつ明晰な口調で話しだす。
「2人とも、私の医局に居る医局員です。木村講師に、山本助手です。手技に不安があったので手術には参加させていませんが……その恨み……でしょうか?」
もし、声に温度があったら、平時の彼の口調よりも20度は下がっているだろうと思わせる声だった。
「いや、手術に参加させていない恨みではないと思われるね。だって、一回目の入金は確か、香川教授がまだ日本に帰国していない頃だろう?」
杉田弁護士が適切な意見を述べる。
「そうでした……では、何の目的で……」
彼の表情が苦しげに歪められたのを見て、祐樹は彼の手を握った。杉田弁護士は2人の関係を知っているので別に構わないだろう。幾分冷たい彼の細い指がしっとりと汗で濡れている。掌から出る汗は精神的にショックを受けた時などに発汗する。
彼の指が祐樹の指に絡んだ。それもかなり強い力で。まるで縋るものはこれしかないと思っているような力の入れ方だった。
「香川教授の追い落としが目的かと思われます。星川ナースは手術室のナースの中で一番評価が高い人なのです。香川教授が着任されたら手術の道具出しは彼女に回ってくることはほぼ確定しているということと、彼女がお金に困っているという点から彼女がワザと香川教授の手術を妨害させるように仕組まれた罠だと思われます」
「田中先生の意見は説得力があるが……、彼女がお金に困っている……というのは部外者には分からないよ。我々だってこうして書類を見るまでは確信が持てなかったではないか?田中先生は結果を見てから思いついた結果論に過ぎないのではと思うのだが」
手を繋いだ自分達に笑みを浮かべてから杉田弁護士は客観的な意見を述べる。
「いえ、山本センセは誰にも話したことのない私の母の病気や入院を知っていました。携帯電話で話している最中を盗み聞きされたとしか考えられません。同じように他の人間の通話を聞いていた可能性が高いです。
それに佐々木前教授に目を掛けられていたので、その後継者と目された黒木准教授が順送り人事で教授に昇進されることを望んでいました」
杉田弁護士は考えを纏めるように祐樹の言葉を目を瞑って聞いていたが。
「それなら、香川教授が――失礼、ご本人を目の前にして――目障りだったのだろうな……。しかも、香川教授が招聘されたのはゴッド・ハンドと異名を取る手術の才能が稀に見る素晴らしさが原因だったと聞いている。万が一手術が立て続けに失敗したら香川教授の存在価値が無くなる。そうなれば、香川教授を教授のポストから引き摺り下すことが出来ると考えたのかも知れない……な」
「私は教授のポストにしがみ付くようなことはしませんよ。そもそも日本に帰ってきた目的も他のところに有りましたから。その目的が果たせなかった場合は、直ぐにでもアメリカに戻る気持ちでいました」
彼の細い指によりいっそう力がこもる。彼は細いくせに握力は――外科医は握力などの手の運動能力に特に長けているものだが、彼も生粋の外科医なのだろう、握力や筋力は並みの外科医などよりも遥かに勝っていると思う――かなり強い。正直、こんな力で握られて祐樹の指はむしろ心地良い痛みを訴えていたが、振り払う気には全くなれなかった。
「ほほう、今の教授の言葉から推察すると、目的は果たされたから今も日本に居るということになるな……」
杉田弁護士が例の阿部師長笑いをする。彼は一瞬虚を衝かれたかのように視線を宙に泳がせていたが、幽かに頬を染めると――しかし、どうして頬を染めるのかは分からないが――薄い唇を開いた。
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