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第十三章 第10話

「そうですね。まだ完全に目的は果たしたわけでは有りませんが……。想定していた絶望的な状況にもなっていないので……こうして日本にいます。もちろん、仕事は仕事で自分なりのベストを尽くして来ましたが」 「そうか……、その目的はかなりの確率……そうだな、99%くらいで、達成出来ると僕は思う。くれぐれも早まってはならないよ。短慮や短絡的思考は謹んで……もし、その『目的』の件でも何か相談が有れば、遠慮なく僕を頼ってきて欲しい」  祐樹にとっては暗号めいた会話が続く。  彼の目的とは一体何だろう?  しかし、口を挟む切っ掛けが見つからないように二人は真剣に会話をしている。先ほどの会話の時よりも静かな口調ながらも二人の内心はヒートアップしているような感じだった。 「はい、そうします。有り難うございます」  そう言って彼は深々と頭を下げた。彼の小さめの頭が動くにつれて髪の毛が自然に揺れる。その髪の毛の先までもが優雅な動きをしている。 「本当に、何でも遠慮せずに電話でも携帯メールでも構わない。辛いことが有ったら遠慮なく僕に相談してくれたら光栄だ」  何だか後輩を案じる親身な先輩のようなしみじみとした口調だった。 「はい……そうします」  そう言って杉田弁護士を見詰める彼の瞳は、なんだか幼児が父親に向けるような光を宿している。  と、同時に我に返ったように彼の指がゆっくりと……まるで名残りを惜しむかのように祐樹の手から離れていった。  そういえば彼も父親は早く亡くなったと聞いている。その後は後見人めいた病院の院長に学費などの世話をしてもらっていたらしいが、何しろフィアンセの父親だ。無条件に甘えることは出来なかっただろう。そうなると、彼はずっと何もかも相談する相手がなく1人で決めていたに違いない。それも特殊な性癖を持つ彼には友達にも相談出来ないことも多々有っただろうな……と思う。  それに学生時代に高嶺の花に片思いしていた時などは、相談相手も居ずに1人で困惑していたのだろう。彼をして「高嶺の花」と言わしめる人間はどんな魅力の持ち主だか……考えるのが怖いが。  その恋が成就しなかったということは、相手はノーマルな性癖を持つ男性だったに違いない。彼ほどの容姿を持つ人間ならこの世界では――太った人間が好きなデブ専や、大人(というよりお爺さんと表現した方が適切かも知れない)が好きなフケ専などの特殊な好みを持つ者以外だったら――告白どころか視線を合わせるだけで向こうから口説いてくると思われる。片思いの相手のことを誰にも相談出来ず――まあ、これはお父さんが生きていても同じだとは思うが――1人で思い詰めていたのだろう。  その様々な孤独を思うと――祐樹も父親は亡くしているが現在は入院中の母が父親役も果たしてくれていた――彼の孤独を埋める手助けが出来ればいいなと思う。  出来れば生涯の恋人として。  だが、問題は目先の盗聴器だ。祐樹が病院の夜勤勤務でも彼は祐樹の自宅で過ごしているようだ。盗聴されていれば余計にマズい。「どうして、田中の部屋に香川教授が1人で居る?」と怪しまれること必至だ。   尾行が始まったのが昨日なので、盗聴器が仕込まれたのも同じ時期ではないかと推測する。興信所が調査対象者に盗聴器を仕込むことと尾行することの二段階に分けて動かないだろうな……という漠然とした祐樹の予想と、昨日は手術室スタッフの全員が驚愕したとかいう香川教授の狼狽ぶりで、祐樹の存在がクローズアップしてきたのではないかという推定が理由だ。 「ところでこの書類なのですが、持ち帰っても問題は有りませんか?」 「この書類が僕の事務所経由で手に入れたということさえ黙っていて貰えれば問題ない。もうコピーも取ってある。後は学内の問題になるので……健闘を祈る」 「ちなみに、これは犯罪になりますか?」  教授が聞きづらそうに言う。 「ううむ、難しいな……専門家でも意見が分かれるだろう。思いつくのが刑法197条の贈収賄罪だが、これは公務員が職務をする・しないを目的に金品を要求することが条件だ。例えば、警察官という地方公務員が道路交通法違反の車を取り締まった時に、違反した相手が金持ちそうなので『違反をもみ消す代わりに100万円払え』などと言った時点で成立する。金銭の受け渡しがなくてもだ。ただ問題は、星川ナースが公務員に看做されるかどうかが一点目。独立行政法人である大学病院に勤務しているという点ではたしかに看做されるかもしれないが、医師に限定すべきだという学説も存在する。  二点目は、山本・木村両人は星川ナースに『このお金を払うので、香川教授の手術を邪魔してくれ』と頼んだという事実を立証出来ないと、贈賄罪にはならないし、ナースが国家公務員でないと看做すならば、そもそもこの罪は成立しなくなる。何しろ、『頼む相手が公務員限定』の法律なのでね。頼む相手の身分はこの際関係ない。後は国家公務員法を詳しく精査すれば、何とか他の罪に問えないかは調べることは出来るのだが……。あとは、2人が共犯でお金を渡しているのか、それとも1人がリーダーでもう1人は名前を貸しているだけなのか……そういう内部事情を調べることは出来る。興信所を使ってね」  「興信所」という単語の時だけ祐樹に意味ありげな視線を送る。それ以外の杉田弁護士は下心を全く感じさせない、あくまでも弁護士がそのクライアントに向けるのはこんな視線だろうな……と思う表情で語っている。 「いえ、それには及びません。本当に有り難うございました。後は学内で処理します」  彼は静かに立ち上がり、そして優美とも言える動作で深くお辞儀をする。祐樹も慌てて立ち上がって彼に倣う。といっても自分のお辞儀は彼の優雅な動きとは雲泥の差だろうと思いながら。  杉田弁護士には興信所の件で香川教授の一件以外で仕事をさせてしまった。プロに仕事をしてもらった以上はお金を払わないといけないと思うが、教授と一緒の今はその話は出来ない。後で外から電話しようと決めた。尾行は完全に撒いたし、盗聴器の心配もない今しか込み入った話は出来ない。  2人して烏○御池を歩く。この辺りはオフィスも多いが、街路樹も多い。その街路樹に多分、雀だろうが、鳥がたくさんとまっているらしく鳴き声がうるさいほどなのだが……彼と歩くとその鳥の鳴き声さえもが耳に心地よく感じる。  彼も何か自分の考えに耽っているらしく無言だったが、そう気詰まりでもない。何だか2人でいる時間が長すぎて会話しなくても彼の存在を空気のように感じている。  祐樹の部屋に盗聴器が仕掛けられている以上、彼と一緒に帰宅することは出来ない。どう言えば彼が自分のマンションに帰ってくれるだろうか?嫌われることなしに……。  木村先生が絡んでいたのは予想外だったが、山本センセが一枚噛んでいることはおぼろげながら分かっていたのでそうショックでもない。  一番の難問は、彼に「自分のマンションに帰ってくれ」と言う言葉の選び方だった。杉田弁護士のアドバイスでにわかに不安になったので。  大型の書店を通り過ぎると、アメリカ資本の緑の看板のコーヒー店がある。杉田弁護士の所では遠慮して煙草を吸ってなかったこともあるし、ここは店外なら煙草は吸えるし、他人の耳を気にせずに話しが出来る。慌しく考えを纏めると口を開いた。

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