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第十三章 第11話
緊張して口を開く。恐らく街で好みの女性をナンパする方が緊張の度合いが少ないのでは?と思うほどに。まぁ、祐樹は自分の性癖が性癖なのでそんなことはしたこともないし、女性なら祐樹が声を掛けずとも、街中で逆ナンも数多いほど向こうから寄って来たが。
「……あのう、咽喉が渇いたので、あそこでお茶しませんか?煙草も吸いたいですし……」
努力して何でもない口調と表情を作る。教授は幽かに表情を暗いものにした。何か祐樹の態度に不自然なものを感じたのだろう。
「そういえば、杉田弁護士の事務所では机上に灰皿が有ったのに吸っていなかったな」
「ええ、私は目上の人の前では吸わないので――余程心を許した人ならば吸いますが」
暗に教授を指していたが、彼が気付いたかどうかは定かではない。
2人で道を歩いていると会社帰りの女性だろう、教授を見た瞬間はっと目を見開き隣の女性に合図してこちらを見詰めている女性たちがいた。明らかに歩調が緩くなるのが分かる。中には顔を恥ずかしそうに赤らめてそっと上目遣いに眺めている人もいる。すれ違ってもわざわざ振り返って行く女性まで――これは二人連れが多いが――までもが存在する。
すこぶる面白くない。祐樹も同じような瞳で見られていたが、彼を見詰める女性が6割、祐樹は4割位だった。
そういう女性たちの態度を気付いているかと横目で彼を窺うが、全く気付いた様子はなかった。
「今日は阿部師長の言いなりにならせてしまって済みませんでした。随分恥ずかしかったでしょう?」
「ああ、ジーンズなんて久しぶりだ。この格好が目新しいのか、救急救命室のナースが携帯電話で写真を撮っていた……な」
それは教授のジーンズ姿が目新しいので撮影したのではなく、彼の新しい魅力をせめて携帯のデータフォルダに残したかったに違いないと思う。
「そうなんですか?救急救命室のナースだけですか?」
どうせ夜勤に行く部屋だ。どのナースが撮影したのかを聞きだして、祐樹の携帯にも転送してもらおうと思った。
「いや、それが何故だか分からないが――その時間は救急搬送の患者さんが途切れている時間帯で皆が暇だったからか――他の科のナースまでが見物にやってきて携帯で写真を撮っていた……な。どうして他の科のナースが来たのかは分からないが。病室へ戻る鈴木さんが入り口の周りに居た他の科のナースのせいで出られないハプニングまで起った」
何でもなさそうに言う。
「鈴木さん、どうされてましたか?」
「ああ、何だか病室に居る時よりも活き活きと仕事をしていた。服も阿部師長の計らいで白衣とワイシャツとスラックスが用意されていたので、事情を知らない人は救急救命室の事務方スタッフだと思うだろう。水を得た魚のように働いていた。私にも丁重な挨拶が有ったが……。そして、群がってくるナース達を元気に追い散らしていた」
それはきっと救急救命室のナースの誰かが携帯メールでナース仲間に緊急連絡のメールを打ったのだろうな……と思う。ただ、ナースの情報網と医師の情報網は全く異なるので、香川教授の学生っぽいファッションのことが医師の情報網に引っかかるとしてもそれは数日後だろう。目的は今日、教授が普段と異なる格好をして仕事場を出たことを山本センセや木村センセにばれなければそれでいい。
「お詫びに奢ります。何が良いですか?」
店内の注文カウンターで聞いた。店内に居た女子大生と思しき一団がこちらを見て一斉にお喋りを止めて見詰めて来ている。
「有り難う。そんなに咽喉が渇いていないのでホット・コーヒーのスモールサイズを」
「サンドイッチでも食べませんか?それとも食事は他の店でしますか?」
自分はずるいと思った。彼に自宅に帰って欲しいという言葉を言い出しかねて時間稼ぎをしているのだから。
「夕食は普通の居酒屋で食べたい…な。せっかく四条河○町が近いので、そこでゆっくりと」
花の香りのようなものが彼の耳触りの良い声に含まれていて……良心の呵責を覚える。
「では、そうしましょう」
祐樹はアイス・コーヒーのラージサイズ、彼にはホットのスモールサイズを注文した。杉田弁護士から証拠として貰った書類のクリアフォルダは当然のことながら祐樹が持っている。部下なのだから当たり前だ。
トレーを持とうとすると、しなやかな白い腕が器用に動きトレーのコーヒーには波が立たないほどの繊細な動きでトレーは教授が持っていた。
そして先に立ってドアから外に出て行く。彼が出た瞬間、女子大生の一団は上気した顔でひそひそと話を再開している。そんな女性達をチラ見して慌てて彼を追う。
「木村先生と山本先生の話だがどう思う?」
祐樹が煙草に火を点けていると、幾分眉を顰めた教授が言う。
「確か、山本センセの実家はかなり大きな病院を経営していると聞いたことが有りますが、木村先生については寡黙な方であまり良く知らないのです。貴方こそ、職員の履歴やプライベートな件を知る立場にありますよね。何かご存知ですか?」
コーヒーを持て余したように――杉田弁護士の事務所であれだけ水分を摂取したのだから当たり前だが――プラスチック容器を長い指で弾いている。そんな些細な動作ですら彼がすると匂い立つように清楚ながらも妖艶な色香のあるものに変わる。
「それが余り良く覚えていない。仕事振りだが山本先生はどことなくいい加減だという報告は上がってくるが、木村先生は職務に忠実でトラブルなどは起こしていない。こういうことは黒木准教授の方が良く知っていると思われる。この問題は黒木先生にだけは真っ先に相談しなければならないので、その時に聞いてみることにする」
今言わないと、もしかしたら言い出せないかも知れないと漠然と思った。一瞬目を固く閉じて、おもむろに言った。
「もう星川ナースが貴方の手術に現れることはないでしょう。それに、曲がりなりにも黒幕が絞り込めたので……もう、貴方は手術への不安はかなり払拭されたと思います。
私の部屋もベッドも狭いですのでさぞかしお疲れのことと思います。一度自宅に戻られては如何ですか?
お1人でゆっくりと眠るほうが余計な気も遣わなくて済むことと思いますが……」
彼は切れ長の目を見開いて祐樹の言葉を聞いていた。ジーンズに置いた手が強張っている。
祐樹が話し終えてもしばらく唇は動くことはなかった。夜目にも彼の薄目の唇が白くなっているのが分かる。そして纏っている雰囲気さえも青ざめているのが分かった。
気まずい沈黙が辺りを支配する。いつの間にか彼のジーンズの上に置かれた綺麗な手が握られているのが分かる。そして半袖から露出した腕の筋肉の動きで彼の手のひらが力いっぱい握り締められていることが分かる。彼の表情は何かを耐えているような青ざめた真剣さだった。
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