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第十三章 第12話

 夜の帳が落ちてコーヒーショップの外部の電灯が灯るまで彼は無言だった。何かを言いたいが薄く形の良い唇は動くが、言葉は発しない。  その様子をただじっと見詰めることしか出来なかった。季節を無視して彼の雰囲気はまるで氷の彫刻のようだった。  杉田弁護士のアドバイス通りに全てを話してしまった方がいいのだろうか?話すなら今だ!と思った瞬間、彼の幽かに震える唇が動いた。 「祐樹は――私の記憶違いでなかったら――あの部屋に他人を入れるのは初めてだと言っていたな……。そうだったら、他人と同居するのは……精神的に疲れる……だろうな……。  それに職場では……上司なので……気を遣わせていたのかも知れない……私にはそんな積りはなかったのだが……。  祐樹の部屋に居候をしていたのは……確かに私の甘え……だ。そして、星川ナースの件が片付くまでという約束をしたのも私なのだから……速やかに出て行くべきだろう……な……」  彼の切れ長の目は夜の闇の中を幽かに照らす銀色の月の光を連想させる。冴え冴えと凍りついた月の光。  ツイツイ本音――ずっと、彼を祐樹の部屋で見ていたい――を語ってしまいたくなるが、今日、彼に祐樹の部屋に彼が来るのは絶対にマズい。 「ええ、少し疲れました。学生時代から、ずっと気ままな1人暮らしだったもので――いえ、教授が悪いわけでは全くないのです。そろそろ一回、仕切りなおしというか……、一度、教授もご自分のお部屋でのんびりと休まれたほうが良いかと思いまして」 「そう……か」  彼は聞こえるか聞こえないかのギリギリの音量で呟いた。祐樹も良心が疼くことを自覚した。「少し疲れた」というのは真っ赤な嘘なので。半ば無理やりに言葉を続ける。 「ええ、当初の目的は達成出来ましたので、この辺が潮時かと……」 「……潮時……」  鸚鵡返しのように呟く彼の口調には寂寥感が漂っているようだった。相変わらず手はジーンズの固い布地を握り締めている。関節が固まってしまうのではないかと危惧されるくらいの強さで。彼の細いが強靭な筋肉もずっと強張ったままだ、表情も。  数秒の間、目を閉じて何かを考えているような動作をしている。  2人の間には見えない緊張の糸が今にも切れそうな様子で張り詰めているかのようだった。やはり真実を告白しようか……と思う。 「祐樹の部屋に……いつの間にか増えてしまった……私の私物も……持って帰ったほうがいいのだろうか?」  瞳を開き質問を再開する彼の口調は普段通りの明晰さだったが、声が微妙に震えている。眼差しは真剣さと切なさを湛えていた。 「いえ、取り敢えずのことなので……置いていて下さい」  彼の瞳に僅かながら希望のともし火が灯ったような気がした。 「置いていて……いいのか?もし私が取りに行くのが迷惑ならば……着払いで私の部屋に送って貰っても構わないが…」  彼の瞳が少し明るくなったのを見て、少しは心が――というよりも良心の呵責が――薄められるような気がした。 「いえ、置いておいて下さい。教授の私物まで私の家から無くなるととても寂しいですから……」  言外に「心変わりをしたわけではない」と伝えるが、彼は分かってくれただろうか?  彼の明敏な頭脳なら分かってくれると信じたいが、これまでの彼の付き合いの少なさから考えると、分かってくれたかどうかは覚束ない。 「…って祐樹がそう言うのなら、置いておくが……邪魔だったら着払いで送ってくれ」  闇夜に似た彼の瞳の雰囲気は、やはり彼の傷心を物語っていて。  ただ、バックに危ない反社会勢力が存在する興信所の件を言ってしまって、これ以上彼の心痛を増やすことは祐樹には出来なかった。   3日間の我慢なので――杉田弁護士のルートで上部組織が動いてくれることを切実に願っていた――彼の声が祐樹の部屋に取り付けられている盗聴器の受信先に紛れ込んでしまったら大変なことになる。それだけは絶対に避けなければならない。  祐樹が救急救命室で学んだことは「一度に何もかも片付けようとしない!緊急かつ重要なことから優先順位を付けて1つずつ処理していくこと」だった。  今は、彼を祐樹の自宅に来させないことが一番優先順位は高い。  何も知らない彼が……といっても、今日の救急救命室での無理やりの着替えや普段は救急車両しか停車出来ない場所にタクシーを待機させた件で「自分の知らない何かが進行しているだろう」ということはかなりの確率で察しているはずだ。だから、祐樹のイキナリの申し出もその件絡みだと分かってくれればいいのだが。 「迷惑では全くありません。過去の貴方への行い――特にホテルにおいて――とで信用されないのは私の不徳の致すところです。とにかく、ご自宅に一度帰って下さいませんか?」  そう言って、深く頭を下げた。  彼は銀色の月のような瞳で祐樹の顔を凝視していた。8割の恐れと2割の希望が含まれているような表情だった。  教授のコーヒーは口も付けないままに虚しく冷めていったが、祐樹の言葉を聞いて、思い出したように口をつける。 「すっかり、アイス・コーヒーになってしまった…」  唇は仄かに微笑を浮かべているが、瞳は厚い雲に隠れた月のような光を浮かべ左掌もジーンズを握り締めている。 「食事の件だが……急用を思い出したので……今日は自宅へ帰る。明日の朝一番で教授室に来て欲しい。黒木准教授も呼んでおくので」  そう言うと長く細い脚が優雅に、しかし心ここに有らずといったように動くと、ふらりと立ち上がった。  彼の若干細い肩が重い荷物を背負っているかのようだった。  ここで全てを告白したら……その荷物がもっと重くなるような気がして、余計に言い出せない。  言ってしまおうかとも思ったが。だた、それでは追い討ちをかけるような気が、した。

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