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第十三章 第13話

 この辺りはオフィス街なので、夜になると照明が落とされる。もともと、京都は今、町の活力がない上に、世界的な不況だ。街灯の灯りも節約しているのだろうか?かなりの暗闇だった。  その暗闇の中で一際際立っているのが月の光だった。もし、季節が秋ならば格好の月見酒の肴に出来るだろう。祐樹にそんな風流な趣味はないが。  その月の光の雫に照らされて彼がいつもよりもゆっくりとした――というのは好意的な表現で――第三者が見れば酔っているのかと思われかねない足取りだった。そしていつもは胸を張り颯爽と歩く彼が、悄然と肩を落として歩いている。月光の儚げな光に照らされて、そのまま何処かへ消え去っていくのではないだろうな……と祐樹にさえあらぬ妄想を抱かせる神秘的で弱弱しい姿だった。  急いで席を立ち追いかけた。職業柄走ることには慣れている。程なく追いついた。後ろから肩を軽く叩くと、彼の身体がビクンと震え、後ろを振り返る。一瞬驚いたように目を見開いたが、叩いたのが祐樹だと分かると幽かに微笑んだ。その微笑は月光の雫を纏っているようで、ひどく儚い。今手を離したら、彼がどこかへ行ってしまいそうな気がした。  彼は何かを話そうとしているが、唇が空回りをしているだけだった。 「途中まで送ります。貴方がお嫌でなければ……」 「……祐樹こそ、嫌ではないのか?」  囁く声が僅かに震えていた。 「もちろん、嫌だなんてことは一切ないです。月も綺麗ですので、帰宅がてら一緒に散歩しませんか?」 「ああ」  彼の声が少し、ほんの少しだが灯りを灯す。  それからは2人黙って歩いた。 「どうして追いかけて来た?」  心の底から溜め息を吐くような声だった。 「月が貴方を攫って行くような気がしたのです」 「何だか小説の一節のようなセリフだな」  僅かに笑いを含んだ声だったが、根底に流れるのは恐らくは悲しみの感情だろう。  彼は自分の気持ちを言葉に出来ない人間ではないかと薄々は思っていたが、コーヒーショップでの一連の会話で確信に変わった。信頼出来る人間が回りに居ない生育環境で育つとそうなると大学時代の授業で習ったような気がする。祐樹は精神科や心療内科などのメンタルヘルスには全く興味がなかったので、テストの解答用紙に正解を埋めた瞬間、そちら系の知識は雲散霧消してしまっていたのが、今となっては後悔する。  彼は自分よりもずっと孤独で、その孤独を紛らわす術を勉強や仕事に求めたのだろう。確かにそれは間違いではないし、彼によって助かった患者さんの多さは流石だと思うが。  患者さんの感謝や手術の成功例や出世などでは埋めがたい孤独を抱えて生きているような気がした。  思わず彼のむき出しの右手を掴む。彼の手は細いので、二の腕を祐樹の指が回りきった。 「冷たいですね……」 「そうだな……祐樹の手は暖かい……もう怪我は大丈夫なのか?」  月明かりに照らされた彼の横顔は冴え冴えとしてとても綺麗だった。完璧なフォルムを持つ横顔にしばし見惚れる。 「ええ、大丈夫です。テープで雑菌が入るのを防いでいるだけなので……もともと縫う程の裂傷でもないですし……痛みも全く有りませんよ」 「そうか……それは良かった。心配していたから」  心の底から安堵しているようなしみじみとした声だった。大通りを一本折れた道には人影もない。まだ夜の早い時間だというのに――この街では当たり前のことなのだが――けばけばしいネオンもない昔の風情が残る一画を彼と2人、月明かりだけを頼りに歩いているような気がする。冷たく澄んだ月明かりは雪が降っているような錯覚を起こさせる。  雪の中を2人だけで歩いているような不思議な感覚だった。彼は半そで、祐樹はジャケットを羽織らずワイシャツにネクタイ姿で……冬とは程遠い格好をしていたのだが。 「貴方に……これ以上……ご心配を掛けさせたくないの……です」  祐樹の魂の奥から発した声だった。  祐樹の口調に何かを感じたのか、二の腕を掴まれたまま歩いていた彼が祐樹の顔を見詰める。その透明な視線は何かを必死に読み取ろうとするかのように真剣な光を宿していた。  彼の瞳の光は月光の雫よりも綺麗で無垢だった。   その光には抗えない自分に気付く。視線を絡めたまましばらく歩いていると、奇跡のように小さな神社が現れた。神社仏閣が恐らくは日本一多い街に住んでいるので必然だと言ってしまえばそうなのだろうが。神社はお寺さん――とこちらの人間は呼ぶ――と違って門がない。24時間開放されているようなものだ。  祐樹には見当も付かない花の香りのする小さな神社だった。 「入りませんか?」 「え?ああ、私は別に構わないが……」  鳥居を二の腕を持ったまま神社に入る。仮に神主さんや、他の人間が居ても、二の腕を掴んでいるだけでは「酔っているので支えている」と思われるだろう。  人の気配がないかを慎重に確かめた。名も知らぬ花の香りがいっそう匂い立つ。どうやら人は居ないようだった。  神前に行くのは流石に憚られたので、彼の二の腕から手を離して掌を重ね合わせた。彼は仄かに花のような微笑みを浮かべて黙って祐樹のなすがままにしていてくれる。その微笑は月光の雫よりも儚く、そして煌いていた。  境内に大振りの杉の木が有った。その前まで無言で手を繋いで行く。仄かに青い月の光の下で手を離して、彼をゆっくりと抱き締めた。彼の幾分細い背中が撓るほどの強さで抱擁を深める。彼も祐樹の背中に手を回した。 「キスしても……いいです……か?」  彼は返事の代わりに上を向き、怜悧な瞳を閉じる。睫毛に月の光が反射しているように思ったので目を凝らすと、彼の睫毛は細かい涙の粒が宿っていた。  そっと、睫毛に口付けて涙を吸い取った。――いつの間に彼は涙していたのだろうか?――そして、彼の幾分冷たい唇に唇を重ねた。  お互い口移しで想いを伝え合いたいかのような静謐な口付け。彼が誘うように唇を僅かに開ける。祈るように彼の口腔の中に舌を入れ、彼の舌に絡ませる。想いを舌に託すように舌の表面を祐樹の舌が辿る。  刹那の抱擁を月の光と花の香だけが寿いでくれるようだった。  名残惜しげに唇を離すと口付けの深さを物語るかのように銀色の橋が2人の唇に架かる。その橋を月光が優しく照らす。脱力した彼の薄い背中をゆっくりと撫でながら祐樹は断腸の思いで告げた。 「ずっと、こうしていたいのですが……やはり今日はこれで……おいとまします。あと、明日教授室にはお伺いしますが、3日ほどはお電話をしないで戴けますか。では、お休みなさい」  彼の背中が強張った。 「……分かった……。お休み。ゆっくりと休んでくれ」  2人の秘め事を月の光が青々と照らしていた。  振り返ると止め処がなくなるのを自覚して断腸の思いの結果の急ぎ足で彼から離れた。

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