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第9話

電車を降り、学校までの道のりを二人で歩く。 まだ早い時間の為、通学路で見かける生徒の数はまばらだ。 二人の間で流れていた会話が途切れ、その合間の沈黙を好機と僕は何気ない風を装って話し出した。 「そう言えば、少し調べてみたんだ。」 「何を?」 好奇心を覗かせた顔で、山野が僕の方に向く。 「僕の事。」 「福木君の事?」 よくわからないと言うような顔で山野が繰り返した。 「僕の事というよりも、αやΩの事と言った方が正しいか。」 「…。」 山野の表情が一瞬で強張っていく。 それには気が付かない振りをして話を続ける。 「自分がαという事にあまりに無頓着だったなって反省したんだ。この前のような発作的な事も起きたし。やっぱり色々と知っておいた方がいいと思って。」 「…そう。」 山野の顔色がどんどん悪くなっていく。 それでも僕は続けた。 「色々と分かってみて、やっぱり一つだけ分からない事があるんだ。あの時、山野を怖がらせてしまった日に嗅いだ匂い…あれは何だったんだろうって。一応調べてみたら、Ωのそう言う時に出てしまう匂いみたいなんだよね。」 僕の核心をついた話についに山野の足が止まり、額から首に伝っていく汗が見える。 顔は青を通り越して、血流が止まったかのように白くなっている。 このまま倒れてもおかしくないなと思いながらも、やめる事なく話を続けた。 「当り前だけど僕の匂いではないし、あの時僕らの他には誰もいなかったし、山野君はβだしなぁ…。」 最後の言葉を聞いて、山野が少しほっとしたような顔で再び歩き出した。 僕は悩むような顔をしながら2、3歩進んだところで足を止めた。 それを見た山野も再び足を止める。 あのさ、と山野に向き合って尋ねた。 「山野君はβに間違いないんだよね?」 なんて僕は嫌なやつなんだろう。分かっていながらこんな風に聞くなんて。 でも、それを聞かれた瞬間に見せた山野の表情にぞくっと背中を悪寒が走った。 「そ…そうだよ。」 僕に疑われないようにと精一杯、なんて事のない風で答える山野をいじらしいと思うと同時に、イライラとしたものも感じていた。 「だよなぁ。ごめん、疑うような事を言って。調べていたら、人によってはβだと思っていたのに後から再検査したら実はαだったとかいう例もあるみたいな事が書いてあってさ。山野君はもしかしたらそれじゃないのかな?って思ったんだ。」 「あ、α?僕が?」 山野が拍子抜けしたような顔になった。 「だって、山野君ならαでもおかしくないと思うんだよ、僕。」 「それは福木君の買いかぶりすぎ。俺はただのβだよ。」 強張っていた顔に、少し笑顔が戻る。 「そうすると、やっぱりあれは花かなんかの匂いだったのかな?」 「え?」 あまりに突拍子のない僕の話に、山野の目が点になった。 「匂いに敏感だからこそ、そういうちょっとした匂いに体が反応するのかなぁって思ったんだけど、やっぱり違うかな?」 「俺にはαの匂い事情はわからないけれど、もしかしたらそういう事もあるのかもね。」 自分とは関係のない話になったと感じた山野は、僕を追い抜かすくらいに足取りも軽く答えた。 「あの匂いに関しては、結局は分からずじまいで終わりそうだな。実の所、あれが山野君の匂いなら良かったのにって、ちょっと希望的観測を持っていたんだけどな。」 ぼそっと呟いた僕を山野が驚いた顔で見た。 僕が焦ったように違う違うと顔の前で手を降る。 「この前のやつさ、今でも忘れられない位にいい匂いだったんだ。だから、実はもう一回嗅ぎたいなと思ってて。もしあれが山野君からの匂いなら、また嗅げるんだよなぁって思ってさ。ただ、また君を怖がらせるような事をしてしまいそうだから、その時には僕を椅子かなんかに括りつけておいてから嗅がないとだけどさ。」 そう言うと自分の手を後ろ手にして、縛られたような格好にする。 「俺じゃないから…。」 再び顔が青ざめていく山野の肩を分かっているよと言いながら抱くと、体を支える振りをしながら気付かれないように山野に鼻を近付けていた。 山野の匂いがする。 あの例の甘い匂いとは違うけれど、山野の匂い。 市販のシャンプーや石鹸や洗剤や柔軟剤の中に潜むその匂いが僕の鼻をくすぐり、心地良い気持ちにさせてくれる。 ずっと嗅いでいたい匂い。 あの甘い匂いの時に感じたような激しく抑制のきかない欲情ではなく、愛しい、愛したい、ずっと一緒にいたいと思う感情が僕の心を満たしていく。 いや、一緒にいたいと思うのはそうとして、愛したいとか、愛しいというのは何だ? 僕と山野は友達だ。 そもそも僕が山野に友達になって欲しいと告げたのに、何でこんな感情が出てくるんだ? きっと匂いのせいだ。 あの甘い匂い。 あれを嗅いでから、僕は山野に対して友情と愛情の間を行ったり来たりしている。 でも、今は違う。 あの甘い匂いではない山野の匂い。 そしてそれに反応している僕の感情。 分からない。 それでも湧き上がる感情と匂いを嗅いでいたいという欲望を止められない。 僕は一体どうなっているんだ?! 整理できない感情で頭がいっぱいになってしまい、下駄箱の入り口に着いた事にすら気が付かない僕に山野が声をかけた。 「福木君?もう大丈夫だから、離してくれる?」 そう言って山野の肩に置いた僕の手にそっと触れた。 「あ、あぁ、ごめん。」 そう言ってすっと肩から手をどかしたが、無意識にまた放課後にと上げた山野の腕をつかみグイっと自分に引き寄せると、その体を強く抱きしめていた。 「離したくない。」 勝手に口から言葉が出た。 「ふ…福木君?!ダメだよ、福木君!」 僕の腕から逃れようと山野が身をよじる。 「ダメって何で?僕は山野とずっと一緒にいたい。このまま一緒にいたい。」 まるで駄々っ子のようだと自覚しながらも、言葉が止まらない。 「山野は僕と一緒にいたくないの?」 ズルいやつだとわかっていながら山野に尋ねる。 「お…俺は…。」 山野が僕から目を逸らし顔を真っ赤にして下を向く。 ふとこちらに向かってくる生徒数人の声が聞こえてきた。 僕の腕の中でびくっと体を震わせた山野が、僕の腕の中から解放されようと先ほどよりも激しく身をよじった。 僕に抱かれている姿を見られるのが嫌なのか? 僕と一緒にいるところをそんなに見られたくないのか? 冷静に考えれば当たり前な事なのに、この時は山野が僕から離れようとする事に無性に腹立たしい気持ちになり、どうしても我慢できなかった。 山野の腕を掴むと下駄箱の扉の前を通り過ぎ、あまり人の通らない校舎裏に向かった。 山野は少し抵抗する風ではありながらも、僕に引っ張られるがまま付いて来た。 校舎裏の壁に山野の背中を押し付け、両肘を山野の顔の両側にドンっと打ち付けた。 顔と顔の距離が近付き、山野の顔が先程よりも真っ赤になった。 「ふ…福木君、俺達友達なんだよ?ねぇ?福木君が言ったんだよ?俺と友達になりたいって。福木君、俺と君は友達なんだよ?」 「福木…でいい。」 「え?あ、あぁ、分かった。福木、俺達は友達だろう?」 「福木」と山野に呼ばれ、僕の心が温かい気持ちで満たされていく。 たったこれだけの事なのに、嬉しくて顔がほころぶ。 「福木、そんな顔、ズルいよ。」 山野がこれ以上ないくらいに真っ赤になって、膝から崩れ落ちていく。 その山野と視線を合わせるように僕もその場にしゃがみ込んだ。 「山野、大丈夫?」 僕の問いかけに山野が首をプルプルと横に振る。 山野の顎に手をかけて、僕の方に向かせた。 山野は真っ赤な顔のまま、ヤダと言いながらその目に涙を浮かべ、僕の視線から逃れるように顔を横に向けようとする。 それをさせまいと、山野の顎に添えた手に力が入った。 「痛っ!」 山野が声を出した。 僕が瞬間、理性を取り戻しパッと手を離す。 「山野、大丈夫?ごめん!痛かった?」 後悔に苛まれた僕の焦り顔を山野がポカンとした顔で見上げると、プッと噴き出して涙を拭きながら笑い出した。 「え?山野、どうしたの?」 「福木はやっぱり福木だって思ったら、可笑しくて。」 そう言うと再び笑い出す。 「山野、ごめん。僕、またおかしくなっていたみたい。」 そう言って、山野に頭を下げる。 今までの事が嘘みたいに心が落ち着いていた。 こうして冷静になってみると、なんて恥ずかしい事をしたんだという後悔が再び僕を飲み込んでいく。 頭を下げ続ける僕の腕を山野が掴んだ。 「福木、大丈夫だよ。福木はαとしての色々な事に振り回されているだけ。俺はそれを分かっているから大丈夫。俺が福木と友達をやめるなんて事ないし。俺だってずっと福木と親しくなりたいって思っていたから、だから大丈夫。ほら、顔上げて?」 山野に促されて顔を上げる。 それを見て微笑んだ山野が愛おしくて、再び抱きしめたいという気持ちが沸き立つのを、何とか落ち着かせた。 「俺も福木とずっと一緒にいたいよ。でもさ、会えない間も福木の事考えてるし、会えた時に物凄く嬉しいから、会えない時間も大事だと思うんだ。」 そうだろ?と山野に諭され、僕は頷くしかなかった。 「でも、放課後まで会えないのはやっぱり長いよなぁ…あ、今日は、昼も一緒する?俺の方は別に大丈夫だけど、福木は?」 山野の申し出に一も二もなく頷いた。 「じゃあ、決まりだね。昼休みにいつもの所で待っててよ。ちょっといい所知っているんだ。」 分かったと僕が頷くと、山野がそれじゃあ行こうと僕の手を掴んで校舎に向かって走り出した。

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