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第14話一ノ瀬音也
今日一日で取ったメモの整理をしてから帰宅するつもりが、とっくに夕刻を回って周りはがらんどうなオフィスへと変貌していた。
「一ノ瀬君!! まだいたんですね」
「社長! お疲れ様です」
駆けてくる一十木社長がお茶目で可愛い。自分よりハイスペックで端正な顔立ちをした男が、パタパタというSEを一ノ瀬に後付けされながらこちらへ寄ってくるのだ。
くしゃくしゃになって厚みを増したメモを見るなり、一十木社長は感嘆の声を漏らす。「熱心ですねぇ」と柔和な笑みで一ノ瀬を褒める。
今日の社長は一味違うらしい。
これまでご飯やお酒を何度も一緒にしてきたが、一瞬の隙を見せているのは戦略か、それとも今日は「そういう日」なのだろうか。
優しい感情がストレートに伝わって、一ノ瀬は若干のりんご頬で、重なったメモを不必要に整え直した。
「初日から疲れたでしょう。私もさっき、接待で飲みに行っていて、嫌な酒を飲まされまして……ここに帰ったら熱心な新入社員が一人メモを整理されてるんですから、気分が一気によくなっちゃいました!」
「っ、そ、それは何よりです、ね」
「では、労いも兼ねてご飯にいきましょう! もちろん、お金のことは心配しないでくださいね」
社長の威厳が完全に崩れ落ちたので、性急に周りを見回して納得した。
「もう……! ちゃんと社長は威張り腐ってないとダメですからね」
「そんなことないですよ! 今日だって見回って、一ノ瀬君の勇姿をちゃんと拝んで接待してきましたから。——随分楽しくミーティングされていたようで、何よりですよ」
「しゃ、社長?」
出会った当初から社長のパーソナルスペースに違和感を感じていたが、今日は特に近い。というより、腰を支えられている。この近さは上下関係を逸脱してないか。
上半身だけでも距離を取ろうと、身を仰反る。
「どうしてです?」一十木社長は不満げにこちらを見る。そして腰に回した腕は、社長自身の方へさらに引き寄せてくる。
このままでは、上司のセクハラというやつだ。
「一十木社長、接待でたくさん飲まれたんですね? 今日の飲みはやめときましょう? 俺は貴方のところの社員、一ノ瀬音也ですよ、誰かと街がられて」
「いいえ、行きます。だって、あんな形で入社してくれたんです……ご友人と同期になるはずだった会社からうちに来てくださったんですよ。きっと、ご友人とのいざこざもできてしまったことでしょう。それを思うと、申し訳ないと思うのと、それでもやっぱり貴方をこちらに引き寄せてよかったと後悔せずにいられたんだ。私の裁断は間違ってなかった」
ぐい、と引き寄せて「お友達には申し訳ないんですけど……やっぱり貴方は此処にいて正解だ」と一ノ瀬の瞳を凝視した。それも穴が開くように見るのだから、気恥ずかしくなって、視線を逸らした。
「おおっと、逸らされるなんて心外ですねぇ」一十木社長は眼光鋭くさせて、獲物を前にしたハイエナの如く、さらに一ノ瀬の腰を引き寄せて、上半身すらも逃げ場を失った。
「私は、嫌な酒を飲んで帰社してみれば、最近のお気に入りの社員君が熱心に仕事に取り組まれてるんですよ? 嬉しくてつい、手を出しちゃいそうになるのは、他の上司もあるあるじゃないですかぁ」
嫌な酒を飲んでいた割に、饒舌に話す一十木社長が下戸であることをこれだけの変化では見抜けなかった。
「……ありがとうございました。うちに来てくれて。仕事とプライベートを分けることはメリハリになりいいことでもあります。ですが、人間性が仕事でも生きてくるのは確かで、営業課に配属された君にとっても、私にとってもメリットでしかない……」
そういう一十木社長は、物憂げに耽られた後、「メリットしかなかったはずなんですが‥…」とさらに言葉を濁した。今の今まで引き抜きに後悔はないと断言して、今更友人の存在を気にしてみたり、強引な引き抜きに罪悪感のような負い目を感じているような素振りを見せたりと、言動がチグハグになってきている。
一ノ瀬にそのような高度な思考には至らない。だが、顔を覗き込むくらいの心配は当然する。
「飲み過ぎたんですね。今日は帰りましょう」
一ノ瀬なりに言葉を選んだつもりだった。なぜか抱き寄せられた腰のこともあまり気に留めず、社長の手をとる。「お荷物を取ってきますから——あ、こういう時って秘書さん? に持ってきてもらうんですっけ?」。
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