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逆鱗

 廣瀬の斜め後ろにいる俺は、座っているのもあってやつの表情はよく見えない。  見えないが、だんだん低くなる声には明らかな怒気が含まれていて、それが地下のマグマみたいで、こっちまで身がすくむ。  それを真正面から受けている兼嗣は気まずげに目線を逸らすだけ。当たり前だ。  逆に今ここで何か余計なことを言ったら俺が殴り飛ばすからな。 「……」 「言えねえくらい酷い扱いしたのか。なあ俺、美夜飛より、お前のほうが何考えてんのか分かんねぇんだけど」 「……後悔してる。みーちゃんに、無理させたこと」 「は?」 「……兼嗣、やめろ……」  何だか妙な方向に会話が進んでいることに気づいて、とっさに口を挟む。  だが兼嗣は懺悔するようにうつむいて、動く唇が止まる気配はない。  ざわりと湧いた焦燥感。いやな胸騒ぎがした。 「痛いって泣いてたのに……」 「……っおい、やめろ、やめろよっ、兼嗣……っ!」 「無理やり、抱いた。レイプしたんだ」 「違う!! 違ぇ……っ!!」  空間がビリビリと波打つくらいに叫んだ瞬間──ボゴッ、と空気が揺れる、硬くて鈍い音がした。  廣瀬の一撃が、顔面にモロに入った。  勢いで後ろによろめいた兼嗣は頬を庇うこともなく、項垂れて微動だにしない。  一部始終を間近で見ていた花岡は、自分が殴られたわけでもないのに真っ青な顔を両手で覆っている。 「……お前、ほんと何してんの? 何やったか分かってんの?」 「……」 「お前のしたこと全てにムカつくわ。マーキングなんか、こいつは男にとっての獲物だって目印つけてるようなもんだろ。逆に足枷になるって思わなかったのか?」 「……」 「そこまで考えられなかったのか。なあ、相手のこと考えられないくらい余裕ねえのに、自分の欲だけ押し通したのかよ」  思いきり殴っておいて廣瀬は声を荒らげることも呼吸を乱すこともなく、口調も声色もひたすらに冷静で平坦だった。  なのにめちゃくちゃ理詰めで責めてくるの、それが正論なだけに恐ろしい。 「……ごめん」 「つか殴りてえのは俺じゃなくて美夜飛のほうだよな……。俺に謝るのもお門違いだし。ちょっと頭冷やしてくるわ。裕太、美夜飛頼む」 「あっ、ちょ……翔……っ!」  廣瀬はすれ違いざま、退けと言わんばかりに兼嗣の肩に強くぶつかって、部屋を去った。  いつもなら全然しない足音が聞こえて、唯一それが、廣瀬の怒りを表してるみたいだった。

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