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第9話
20時。
ホレイショのスマホが鳴る。
ホレイショが画面の通話をフリックし、スマホを耳に当てる。
すると直ぐにキュートな女性の声がした。
『チーフ?
もしディナーの最中だったらごめんなさい』
「いや、まだ仕事中だ。
カリー、何かあったのか?」
『仕事中!?
そっちはもう夕食後かと思ったのに…!』
驚きを隠せないカリーにホレイショが小さく笑う。
「それで用件は?」
『あ、ええ。
それがね。
あの動画を送信されて期限の12時間が経過して、24時間経っても何も事件は起こらなかったからもう安心だと思って…。
でもロンドン警察はまだ犯人を追うでしょう?
だってハッキングもしたし犯行予告をしたんだから。
それで役に立つか分からないけど、犯人の特徴を掴むのに役立つ情報を入手したから、報告しようと思ったの。
大したヒントにならないかもしれないけど』
「いや。
どんな小さな情報でもありがたい。
明日の英国アカデミー主催の晩餐会にはアカデミーを支援しているお偉方や貴族も来るというので、もしかしたら犯人は爆弾を仕掛けたが不発したのかもしれないと、ロンドン警察は血眼になって捜索を続けている。
俺も協力を頼まれて今も仕事中ということだ。
それで何を掴んだ?」
『それがね…。
AVラボの責任者があのメッセージを解読したでしょ?
その後、気になることがあるって言ったの。
なぜ第3シーズンなんだろう?って。
どうやら彼はエロスの館に詳しいらしいわ。
認めなかったけど』
カリーがクスッと笑って続ける。
『つまりね、あの暗号を作れる技量があるなら、第1シーズンでも十分可能なんですって。
それなのにわざわざ第3シーズンを選択している。
つまり犯人は、第3シーズンでなければならない理由があった。
そしてあのポルノは今もアメリカのアダルト専門の有料チャンネルでシーズンが続いていて、再放送もしょっちゅうされているそうよ。
その中からわざわざ第3シーズンを選んだということは、犯人にしか分からない何らかの拘りがあるということ。
プロファイリングで、欲望は目に見えるところから始まるって言うでしょう?
つまり犯人は、このポルノをしょっちゅう観られる環境にあると推測出来るわ』
「つまりアメリカ人の可能性が高いと?」
『ええ。
調べてみたらエロスの館はアメリカでしか放送されていないの。
その上、DVDやブルーレイも出ていない。
ネット視聴も無いわ。
このポルノのプロダクションは、馬鹿高い有料チャンネル料金を他の番組とのセット売りでせしめた方がお金になると踏んでるのね。
つまり視聴するならアメリカにいなくちゃ』
「そうか。
ありがとう、カリー。
アメリカ人であるか、アメリカに長期間滞在した経験があるか、アメリカに頻繁に行っている人物で、今イギリスで爆弾を用意出来る人物であり、ディーンが怪我をしてワトソン医師に診察してもらったと知っている人物がいないか調べてみよう。
ディーンが怪我をしたことを知っている人物は限られるし、その中でもワトソン医師に診察してもらったことを知る人物となると、かなり絞れるだろう。
全ての条件を気ね備えているとなると、ほんの一握りの人物になる」
『お役に立つなら嬉しいけど』
「けど?」
『折角のロンドンよ?
ディーンが一緒にいることを忘れないで。
チーフに捜査権は無いんだから、ロンドン警察に情報を渡すだけにして、ディーンとロンドンを楽しんで。
でなきゃディーンが可哀想だわ』
「そうだな。
勿論そうしよう」
『良かった!
じゃあまた』
「ああ、わざわざありがとう、カリー」
ホレイショは通話を切ると、レストレード警部に向かって歩き出した。
結局ホレイショが221Bに帰れたのは午前0時を過ぎていた。
ハドソン夫人は起きて待っていてくれて、フラットの扉を開けたホレイショに、「今日ホテルから届いたディナーをお夜食用にして、二階の冷蔵庫に入れてありますから温めましょうか?」とまで言ってくれたが、ホレイショは感謝の言葉を添えて丁寧に断った。
ハドソン夫人に早く休んで欲しかったし、こんな夜中に手を煩わせるような真似はしたくなかったからだ。
ハドソン夫人はそんなホレイショの心を読むようににっこり笑って、「おやすみなさい、ケインさん。ディーンはきっと起きて待ってますわ」と言った。
その瞬間、ホレイショは、自分がどんなにディーンに『飢えて』いるかを自覚した。
階段を音がしないように素早く登る。
そして一直線にジョンの寝室に向かう。
そっとドアを開けて中に入る。
ディーンはベッドサイドのランプをつけっぱなしにしたまま、枕を抱くようにして横向きに眠っていた。
ランプの灯りを受けて作る、ディーンの長い睫毛の影。
完璧な横顔は、暖色系の灯りのせいで、元々滑らかな白い肌を陶磁器のように見せていて、まるで彫刻のように美しく、あどけない。
ホレイショはその頬に唇で触れる。
ディーンからふわっと花の香りがして、ディーンが小さく「…ホレイショ…?」と言う。
ホレイショが何も答えないままでいると、ディーンはまた深い眠りに落ちていった。
ホレイショはディーンを抱きしめたいのをぐっと我慢する。
何故なら今夜の自分は汚れているからだ。
爆弾捜査の為に、ロンドン市内を駆けずり回り、時には地下にも潜った。
地下鉄から下水まで、爆弾を仕掛けるには効果的な所なら何処にでも。
ホレイショは、ソファに畳まれて置かれてある今夜の着替えを掴むと、静かに寝室を後にした。
―その四時間前―
グラスに目一杯に入った緑色の濁った液体を一気飲みするサム。
チャーリーが即蓋の開いたミネラルウォーターのペットボトルをサムに渡す。
サムが今度はミネラルウォーターを一気飲みする。
そしてベッドに倒れ込むと、虚ろな目で言った。
「ロウィーナ…薬草エキスってこれで最後だよね…?
まだあるって言われても腹一杯で飲めないけど…」
ロウィーナがフンとサムを見下ろす。
「泣き言を言う前に、まずお礼を言うのが先じゃないの?
そーよ!
それで終わり!
たった三杯の薬草エキスを飲む度に、500ミリリットルのミネラルウォーターを飲むからお腹が膨れるんでしょうが!
言わば自業自得よ」
「だって不味すぎだからさ…。
でもそうだね。
キャスを離してくれてありがとう」
「あんたが死んだら目覚めが悪いからね。
私の予測ミスでもあったし」
そう言うと、ロウィーナは優雅に一人がけのソファに座る。
チャーリーが「ほんとロウィーナのおかげよ!お疲れ様」と言って、ロウィーナに赤ワインのボトルとワイングラスを渡す。
「あらチャーリー、気が利くじゃない。
それでサム。
さっさとあんたの中に居たキャスの情報を話しなさいよ」
「分かった」
サムが起き上がり、ヘッドボードに凭れかかり話し出す。
「兎に角キャスは疑問と怒りの塊だった。
なんたってキャスが全力を出しても、ディーンに近づけないどころか連絡すら取れないんだから」
ロウィーナが得意気に「そうでしょうね」とニンマリ笑い、赤ワインを飲む。
「笑ってる場合じゃ無いよ…」
サムが深いため息をつく。
「まさかキャスが僕を身代わりにするなんて…。
実はキャスはホレイショ・ケインにも接触しようとしたんだけど、それすら駄目だった。
それでブチ切れたんだ」
ウンウンとチャーリーが頷く。
「男の嫉妬は怖いからね~」
するとチャーリーがハッとした顔になる。
「あれ?
でもサムとキャスとクラウリーはディーンとホレイショ・ケインにも近づけないけど、私達にも近づけないんじゃなかった?
キャスがここに来れないのに、何でサムは来れたの?」
「そうだよ!
なぜだ!?」
思わず大声を出すサムに、ロウィーナがバンッとテーブルを叩く。
「あーうるさいうるさい!
あんたって本当に丈夫なのね、サム!
さっきまで死にかけてたのに…。
キャスがあんたの声が不愉快だって言ってたのが分かるわ!
説明するから黙んなさい!」
サムが口を一文字に結ぶ。
「それでいいわ。
あのね、あんたは100パーセント人間なのよ。
しかもルシファーの器になる身体を持って生まれた頑丈な人間。
だからキャスはわざとほんの少しの恩寵をあんたの頭に植え付けて、あんたの行動の自由を奪うだけにした。
つまり『ほぼ人間』のままにしておいた。
そしてクラウリーに私に近づく方法を聞いた。
『ほぼ人間』のあんたがね。
何故ならキャスは、自分が私とチャーリーにも近づけないことで、私達があんた達を避けるまじないを使っていると思った。
そして天使の自分が一番警戒されていると考えた。
次は悪魔のクラウリー。
だから『ほぼ人間』のあんたなら、私に近づけるかも知れないと結論に至ったってワケ。
クラウリーは悪魔の秘術でも教えたんでしょう。
悪魔の秘術なんて私にしたら子供のお遊びもいいとこだけど。
まあ私のまじないは破れないから、あんたは死にかけのゾンビ状態で私の部屋に入ることは出来た。
その前に天使のスピードで動かされてボロボロだったけどね」
「クラウリーに聞いたのか!
でもどうしてクラウリーはロウィーナに警告しなかったんだ?」
ロウィーナが冷たい眼差しでサムをジロッと見る。
「あんた、人間の中では頭が良い方じゃないの?
逆よ、逆!
あんたからキャスを離した後で、私からクラウリーに確認を取ったからに決まってるでしょうが!
クラウリーから私達に連絡は出来ないの!
でもこっちからは出来るのよ!」
チャーリーがパチパチと手を叩く。
「流石、ロウィーナ!
抜かりは無いのね!」
「まあね。
天才魔女のまじないは穴なんて無いのよ~」
ホホホとロウィーナが高笑いをした時、サムが「うわあああッ!」と叫び声を上げて両手で顔を覆った。
「サム!?」
チャーリーがサムに駆け寄る。
「大丈夫!?
どうしたの?」
「……た…」
「…え?」
「見えた…!
最後に恩寵が消えた瞬間が見えたんだ…!」
ロウィーナがワイングラスをテーブルに置き、座ったまま両手をサムの居るベッドに向かって翳す。
サムが顔を掻きむしる。
そしてまたもや叫んだ。
「キャスは今回のことで学んだ!
次の標的には、ロウィーナでも感知出来ない位の少ない恩寵を植え付ける!
そしてそれは一人じゃ無い!
恩寵をばら撒き、バスケットボールの様に恩寵を移動させながら人間を支配する気だ!
ディーン奪回を果たすまで!」
ロウィーナが翳していた手を下ろし、「もういいわ、サム」と静かに告げる。
サムがガックリと前のめりに倒れるのを、チャーリーが慌てて支える。
「ロウィーナ!
サムはまだ治ってないの!?」
ロウィーナがすっくと立ち上がり、ベッドに向かって歩き出す。
「いいえ。
これで完全にキャスの支配から抜けたわ。
これからサムに天使除けのまじないをするわ。
用心の為に悪魔除けもね」
「…ま、まだ支配されてたの!?」
目をまん丸くするチャーリーに、ロウィーナが微笑みかける。
「さっきサムに飲ませていた解毒剤と回復薬は、天使に支配された人間にとっては最強の治療薬よ。
それをちょっと細工して、解毒剤が効いてキャスの支配から完全に抜けた時、キャスの恩寵の残像が見えるようにしたの。
それを待ってたのよ。
でも…どんなに小さかろうと私に見えない恩寵なんて無いわ!
それはキャスも分かっている筈なのに、なぜそんな馬鹿げたことをしようとするのかしら?」
チャーリーの瞳がキラリと光る。
「分かってるからだよ!」
ロウィーナが眉を顰める。
「どういうこと?」
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