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第2話
テディの母親であろう女性は、頬にかかる髪を耳にかけお辞儀する。
止まってしまった空気を動かしたのは、テディが再び「ママ」と呼んだ時だ。
「どうしたの? なにかあったの?」
春太の手を振りほどいて、母の元へと駆けて行く。その後ろ姿を見つめながら、冷たくなった左手を握りしめた。
「……テディ。大きくなったわね」
「……うん」
たどたどしい会話のあと二人は向き合い、それ以上近づこうとしない。そして、会話もまたそこで途切れてしまう。
見ていられなくなった春太は二人の元へ向かい口を開いた。
「初めまして。ルークさんに家政婦として雇われている、水野春太です。皆さんにはお世話になっております。……テディのお母様ですよね? 俺が言うのもへんですが、部屋でお茶でもしませんか?」
柔和な笑みを浮かべて春太が尋ねる。
春太を見上げた母親は「夏帆」と名乗った。そして、有難いが部屋には上がれないのだと首を振る。
「え、でもせっかく来てくれたし、なによりテディは夏帆さんと話したいみたいですけど」
「……一度家を出た私がこの家に上がることは許されません。ですから──」
「だったら! お茶しましょう。すぐ近くに小洒落た喫茶店があるんですよ!」
テディと何度か行ったことがある店だ。ナポリタンが絶品で、二人でよく食べに行く。
提案した春太の後押しをするように、テディが夏帆の手を握った。
「ママ、ちょっとだけお話しよ?」
「……そうね」
夏帆がゆっくりと頷く。瞬きの間に見える水のような黒い瞳を見て思った。
テディはルークではなく、夏帆に似ているのだと。
そして三人は場所を移した。
カランと愛らしく鳴るベルの後に、鼻腔いっぱい珈琲の香りが広がる。思わず深呼吸をして堪能したくなる。渋く深みある香りを満喫して、春太は奥にある窓際の席に二人を案内した。
親しくなった店員に、珈琲を二つと、アイスが乗っているメロンソーダを一つ注文する。
剽軽な印象を抱く軽やかなジャズに耳を傾けながら、運ばれてきた珈琲に口をつけた。
夏帆は物静かな女性だ。というよりも、起きているのに眠っているような、そう表現したくなる不思議な雰囲気を纏っている。
どうしたもんかな、と春太が虚空を見上げとき、ようやく夏帆が話した。
「春太さんはこちらに来て長いのですか?」
「もう少しで三ヶ月ほどになります。……ところで、夏帆さんは今日どうして?」
気になっていたことを問うと、夏帆の視線が春太からテディへと動く。その時、僅かに瞳が揺れた。
あっ、と春太が吐息を零す。
「あの、もしかしてさっきの質問は、彼等《吸血鬼》のことをどこまで知っているかって意味でしたか?」
夏帆は春太の台詞にどこか安堵したように頷いた。
「それなら基本的なことは殆ど知ってます。入り組んだ関係性までは知りませんが……」
「そうですか。……私が今日来たのは、テディに変態が起きたのを感じたからです」
「えっ! そんなことが分かるんですか?」
春太は純粋に驚愕した。すると夏帆が、血の繋がりがある吸血鬼には、普通のことだと教えてくれる。
「変態が起きている間は、感じるものがあるんです。けれど、すぐにテディの反応が途切れたので、何かあったのではないかと」
「あ、それは」
途切れてしまったのは、ルークが血を与えたからだ。その時のことを説明すると、夏帆は僅かに目を開いた。そして俯いてしまう。
「……春太さんはルークさんが怖くはありませんか?」
「怖かったのは初めだけですかね。……失礼ですけど、ルークさんって周りに興味が無いじゃないですか。だから俺には息がしやすくて」
春太が何を喚こうが、ルークにとっては羽虫が煩い程度でしかない。
だから呼吸がしやすかった。それに、ルークはなんだかんだと筋の通った話は聞いてくれる。
春太の話を聞いていた夏帆は、苦しそうに笑った。
「……私とは真逆ですね。私は、そんなルークさんが怖くて……逃げてしまいました」
ぽつりぽつりと、夏帆は離婚に至った理由を語る。
純粋の吸血鬼だった夏帆とルークは、幼い頃から婚約者だった。そして、大人になり籍を入れる間際、夏帆が変態して吸血鬼ではなくなった。
夏帆の実家は生粋の吸血鬼しか認めず、また能力主義な面があったために、先の人生に絶望したという。
だが、ルークは力を失った夏帆と気にせずに結婚をした。
「私はその時に勘違いをしてしまったんです。……彼が少しでも私に情があると思ってしまった。本当は、春太さんが言うように興味がなかっただけなのにね」
そう言って、夏帆は苦しそうに笑った。
相手が吸血鬼だろうと、偽物だろうと、ルークはどうでもよかった。
けれど夏帆は、少しでも愛情があると希望を抱いてしまい、空白のような生活に息が詰まってしまったのだと語る。
「ルークさんが恐ろしくて私は話しかけることなんて出来なかった。……顔を合わせることも僅かな時間だというのに、少し目があっただけで、落胆されているように感じて息が苦しくて」
「……夏帆さん」
それから直ぐに塞ぎ込むようになり、心を病んだのだという。
窒息してしまいそうな日々から逃げ出したくて、あの家から逃げ出してしまったと告白してくれた。
春太にはその「窒息してしまいそうな日々」が理解できた。逃げ出したくなる気持ちもだ。
なにより、罪悪感を感じる場所に再び訪れることが、どんなに勇気のいることかも分かる。
夏帆の話を聞いて、何を思うかは人の数だけ違うだろう。中には当然、厳しい意見もあるに違いない。
だが、一つだけ間違いないことがあるならば、受けた痛みというのはその人にしか分からないという事だ。
想像することは出来ても、同じだけの痛みを得ることは誰にもできない。
第三者である春太が正論を用いて、夏帆を責めることはできる。
だが、テディのために戻ってきてくれた彼女を、悪人だとは思えなかった。
そして、消え入ってしまいそうな、色のない彼女を見ていると、胸がぎゅっと締め付けられる。
夏帆もまた春太と同じで、明日を思うたびに死にたくなったのではないだろうかと、同じ匂いを感じた。
「あの、また三人で会いませんか?」
「……会いたいけれどきっと無理だわ」
「ルークさんのことですか? 内緒で会っていたら確かに怒られるかもしれないけど──」
夏帆が春太の言葉を遮り淡く微笑む。そして、緩やかに頭を横に振った。
「そういう問題じゃないのよ。それに、内緒で会おうとしても無駄だわ。……でもありがとう春太さん。それからテディを守ってくれて、どうもありがとうございました」
深く深く頭を下げて、最後にテディの頭を撫でて去りゆく姿を見送る。
夏帆もまたあの悲惨な痛みと孤独を乗り越えた一人なのだ。
なのに、突然その力を失ってしまう。吸血鬼でなくなってしまう。
吸血鬼ではなくなった夏帆を、守ってくれる身内が居なかったことは、話を聞いていれば察せた。
だからこそ、結婚を決めたルークは、ヒーローのようだっただろう……。
母を見送るしかないテディの瞳に漣がたつ。やるせなさが春太の胸に去来した。
その晩、ルークの放った一言で、春太は夏帆の言葉の意味を正しく理解した。
「……あの女の匂いがする。会ったのか?」
「えっ」
ルークがネクタイを解きながら、顔を寄せて不機嫌そうに言う。春太は頬をひくつかせて、包丁をまな板に置いた。
「……や、あの、えっと」
「会ったんだな。……テディのことで来たのか」
「あ、うん」
説明せずともルークが理由を当てたことに、驚きながらも納得した。
「吸血鬼って凄いね。人間の親子には体に異変がおきてるとか分からないよ」
「人間と比べるのが間違っている。似ていても違う生き物だと言っているだろ」
「そうだった。……ところでさ、夏帆さん凄く落ち着いていて優しそうな人だね」
ルークは春太を胡乱げに見る。
「気の弱いの間違いだろう」
「それこそルークが図太いの間違いじゃ?」
思わず零れた本音に、ルークの鋭い視線が突き刺さる。
へらりと笑って謝ると、再び包丁を手にして人参を切ろうとした。その時、ルークがため息をついた。
「……言いたいことがあるなら言え。私はお前の戯言程度で一々腹を立てたりしない」
「嘘つけ。すぐ怒るくせに」
「なんだと」
「ほら怒ったじゃん」
これは違うと否定する声を聞きながら、春太だって分かってるよと心の中で呟いた。
ただ、ちょっとだけ恥ずかしかったから揶揄っただけだ。
やはり、ルークはあの日を境に変わった。
春太の異変によく気づくようになったし、人の顔色ばかり伺ってきたことを気にしてると知っているからか、言えることなら言えと口煩い。
そんな心遣いが嬉しかった。聞いてくれようとする誰かがいることが面映ゆくて、春太の心臓がきゅーっと締め付けられる。
「まったく。話をそらすな。それで、なんなんだ?」
「……ん。俺が言うことじゃないけど、テディと夏帆さんまた会えたらいいなーって」
さすがにここまで口出しするのもどうかと躊躇したが、言ってしまえば呆気ない。
少しの間、返答を待つが、ルークの言葉は否であった。
「駄目だ」
「どうして?」
「テディが吸血鬼になった今、あちらはテディを寄越せと言うかもしれない。最悪、私が反対すると分かって、何も言わずに攫う恐れもある」
「え」
春太が驚いたのは「攫う」ことだけではない。ルークがテディを手放したくないと思っていることに、何よりも驚いた。
「ルークって本当はテディのことすごく好きなの?」
そうであるのが親子というものだ。こんな質問をする方が失礼で不謹慎だろう。
だが、今までの態度や言葉を聞いていたら、テディの事もどうでもいいと言い出しそうな雰囲気があった。
だが、ルークは確かに今はっきりと拒絶した。
「なんだ。よかった……。やっぱり良い親子になれるよ」
「……またそれか」
黙り込んでいた横顔が困ったように不貞腐れていて、春太は思わず声を出して笑った。
大切に思う気持ちがあるならば、大切にしかたを知れば、ルークは愛せる。
春太はほっとして、同時に寂しさを感じた。
この家を出ていくとき、心残りがない方がいい。そして、出ていく前に解決したいことが、予想よりも早く終わりそうで嬉しいのに切ない。
「そういえば、まだ血は要らないの?」
「必要ない」
ルークは既に何週間も春太の血を飲んでいない。他の誰かの血を飲んでいると思っていたが、右京は誰の血も用意していないというのだ。
違和感に気づけたのは、ルークの綺麗な肌が火傷のように爛れていたからである。透明感のあった白さも、最近は病人のように青白い。
そしてやたらと気だるそうで、以前の姿とは全然違っていた。
「もうだいぶ飲んでないんじゃないのか?」
「お前には関係ない事だ」
「……なんだよそれ」
心配して聞いているのに腹が立つ。
血を飲まないと体調を崩すのだから、意地なんて張らずに飲めばいいのに。
春太は嘆息すると、包丁を人差し指の腹に当てる。すっと引くと、痛みが走り一筋の線から血がぷくりと溢れ出た。
「なにをしてる」
「……いいから飲みなよ」
「っ」
匂いで分かったのだろう。瞠目しているルークの元へ向かい人差し指を突き出す。
ルークの瞳はつぅ、と流れ落ちる血を見ていた。徐々に紫から赤へと瞳が色を変えていく。けれど、抗うように頭を振ると、春太から距離をとった。
「要らないと言っている」
「意地張ってるなよ、ばか! そんなヘロヘロしてて、見てる方が辛いんだって!」
ほら! そう言って指を無理矢理にルークの唇に押し付ける。ルークはくらりと目眩がしたように、誘われるがまま舐めた。
赤い舌が丁寧に指の付け根へ流れ落ちた血も舐め取る。そして再び指先に戻ってくると、傷の上を優しく舌で愛撫して、くちゅりと口内に迎えた。
柔らかい口腔内で指をこれでもかと愛されて、春太の体が甘く痺れる。
風邪でも引いたかのように熱に浮かされ、美しい顔を惜しげも無く晒す男に魅入った。
そして、思う。
──ああ、早く出ていかなければ。
この男を心から好きになってしまう前に、この家から出ていかなければ、と。
春太には夏帆の気持ちがよく分かった。
ルークにとってはなんてことない行い。だけどそれが、どんなに心を救ってくれるか。その行いにルークは愛など持っていやしないのに。
春太はあの日、抱きしめられたルークの腕を恋しいと思ってしまった。
そこになんの意味もないと分かっているのに、全てを受け入れられたような気になって、ルークに何かを求めてしまいそうになる。
だから、芽生えたものが深くなる前にこの家を出ていくことにした。
その前に、最後になにかをしてあげたいと思っていた春太にとって、夏帆の登場は神の導きのようにも思える。
もう一度、彼らが一つの家族になれたら、それそこ幸せなことは無い。
瞼の裏で春太が居るこの場所に夏帆が立つ姿を描く。
痛む心に目を閉じて、春太は何もないふりをした。
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