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第2話
一足先にお土産屋に足を踏み入れた春太とルークは、所狭しと並べられているグッズを見て回る。
ぬいぐるみコーナーには、テディが可愛いと夢中になっていたペンギンのクッションや抱き枕が置いてあった。
後でここに連れてきたらさぞかし喜ぶだろう。
ふと、春太の視線が隣の棚に並ぶ、スノードームを見つけた。
深い蒼色の球体の世界に、小さな海月と、乱反射するホログラムとラメ。そして雪を模したスノーパウダーが舞う。
ディスプレイされていたサンプルを手に取り揺らしながら綺麗だと思った。
おかしなものだ。
息が詰まりそうな、そんな灰色の空から振る雪には、心が揺れなかった。
そのくせに、目前の玩具にはこんなにも感動している。
雪の降る日にルークに拾われなかったら、こうしてスノードームを手にすることも、玩具の銀と海の世界を綺麗と思うこともなかった。
隣に好きな人がいるから、美しいものを美しいと心が感じられるんだ。
「それが欲しいのか」
ルークがそう言って、ひとつの箱に入ったスノードームを手にする。
そしてすぐ後ろにあるレジに、長い足ですたすた行ってしまった。追いかけるまもない。
春太がオロオロとしていると、振り返ったルークが包装された紙袋を手渡す。
「ほら」
「いいの?」
申し訳なさと嬉しさで上目遣いに見上げれば、ルークがぐいぐいと押し付けてきた。
「……誕生日に贈るものがこんなもので悪いな。まあ後日、改めて欲しいものを贈るから遠慮なく言え」
「ううん、これがいい。他に何も要らないよ」
春太は受け取ると、頬を赤く染めてはにかんだ。
物の価値は値段やブランドだけじゃない。
少なくとも春太にとっては、どんなに高級なプレゼントよりも、この日を何度だって思い出せるスノードームの方が、値をつけられないほど価値がある。
春太の言葉を聞いていたルークは、眩しげに目を細めた。そして、そんなことを言うやつは初めてだとも言っていた。
それから二人は買い物を終えるとお土産屋を出た。
ふと、横にあるベンチをルークが指さす。
「なにか飲み物を買ってくる。あそこのベンチで待っていろ」
どうやらルークは、惚けてしまっている春太を、疲れていると思ったみたいだ。
疲れているわけじゃないのだが、足元がふわふわしているのは事実だった。
心が浮き上がると、体まで軽く感じる。
春太が歩くたびに、ぽわわわん、ぽわわん、と効果音が聞こえてきそうだ。
言われたとおりベンチに座ると、頭いっぱいに広がるピンクを甘受した。
あっという間に過ぎ去ったルークとの時間を、何度も何度も反芻し、悶えそうになる。
ひととおり幸せを堪能すると、今度は不安が去来した。
手の中にあるスノードームを見下ろして、こんなにも幸せな誕生日があっていいのだろうかと思う。
だって、ルークは目に見えるものだけじゃなくて、何度だって幸せにしてくれる言葉も贈ってくれたから。
「はあ。俺、もうどうにかなっちゃいそう」
春太が手のひらに顔を埋めて、うぅーと唸る。
幸せなことが続いたら、きっと次は不幸なことがおきてしまうのではないか。
優しい時間に慣れていない春太が不安に身を震わせた時。
頭上からかけられた声に体が硬直する。
まるでそれは、春太の心の声を具現化したかのようで、神様は本当に意地悪だと思わずにはいられない。
「……にいさん」
「久しぶりだな」
上品な服に身を包み、口元に酷薄な笑みを浮かべて見下ろす男は、紛うことなき春太の義兄だった。
「どうして」
「家族と来ていたんだ。家を飛び出してから、一度も帰ってきやしない薄情者は、俺が結婚したことも知らないだろ?」
「……っ」
何も知らない人から見れば、さぞかし優しそうに見えるだろう。
だが春太は知っている。優しげな表情の裏で、どんなに残酷なことを考えているか。
「ほら、お前の大切な兄さんに、おめでとうとでも言ったらどうだ?」
金縛りにかかったかのように体が動かない。
徐々に下がっていく視線の先に、義兄の革靴が映りこむ。
どうして。なぜ。こんな時に会ってしまうのだろう。
幸福から一気に地獄へと叩き落とされた。
大切な尊い思い出を、泥まみれにされたかのようだった。
それは何重にも重ねて塗り込まれて、綺麗だった輝きが見えなくなっていく。
義兄はそうやっていつでも春太の大切なものを、容易く奪い去り壊すのだ。
「さっきの男は誰だ?」
「えっ」
「嬉しそうにソレを買ってもらっていたね。どうしようもないお前の事だ。愛人か何かなんだろう?」
「ちがっ」
どんな言葉をかければ春太を傷つけることができるのか、義兄はねっとりとした視線を向けてくる。
否定した春太が無意識にスノードームを胸に抱えた時。
義兄の瞳が三日月のように、にんまりと細まった。
「そんなガラクタのなにがいいのか」
「──やめて!」
義兄の手がスノードームの袋を掴む。
あの日と同じだ。
ふと蘇った記憶に、全身の血が引いていく。
大切な母との繋がりを、無惨にも千切られてしまったあの時。同じように、ぐちゃぐちゃに壊されるスノードームを想像して、華奢な体が怒りで震え上がった。
「触るなよっ!」
気づけば春太は立ち上がり、義兄の体を力いっぱい後ろに押し倒した。
ぜいぜいと肩を揺らして怒る春太を、尻もちをついた義兄が呆然と見上げる。
まさか、「あの」春太が反抗をするなど思いもしなかったのだろう。
驚きに見開かれた瞳が怒りでつり上がっていく様子を、やけに冷静に見ていた。
体は沸騰したように熱く煮えたぎっている。なのに頭の中は静かで凪いでいた。
あの日、風に舞い上がる写真を、呆然と見上げることしか出来なかった。そんな幼い頃の自分が目の前に現れる。
そんな幼い春太と向かい合うのは、あの日とは違う成長した春太だ。
自分の足でしっかりと立つ、今の春太だった。
「ッもう、俺は、貴方の玩具だった頃とは違うっ!」
愉悦のために傷つけられて、ただ泣くことしかできなかった自分じゃない。
テディを通して救いたかった自分を、この瞬間救えた気がした。
同時に、こんなにも簡単だったのかと、勇気の出せなかった弱虫な自分を罵った。大きな声で嫌だと意思表示すれば、春太はもっと色んなものを守れたかもしれないのにとも思ってしまう。
けれど今は、声を上げろと教えてくれた彼等に感謝でいっぱいだった。
ああ、どれだけ彼等に救われればいいのか。
彼等との出会いが春太に絡みついていた鎖を断ち切ってくれた。
「俺は貴方の思い通りには生きないし、貴方の事が大っ嫌いだ! 今後一切、俺に関わるなっ」
ぼろぼろと大粒の涙をこぼして叫ぶ。
周囲の視線が向けられようとも構わない。
初めて自分の気持ちを言葉にできた。
嗚咽が込み上げてきて、ひくりと呼気がつっかえた時、逞しい胸に顔を押し付けられる。
いつの間にかやってきたルークに、春太は抱きついて泣きあげた。
「ルークっ!」
「今度はいったい何に泣いているんだ」
「っおれ」
──言えたよ。やっと、言葉にできた。
涙声でつっかえながら幼子のように話す。
ルークはそんな春太を見下ろすと、勇気を称えるように背中を撫でた。
そして、義兄に向かって視線をやると冷々とした声音で誰何する。
「お前は誰だ」
「初対面の相手にむかってお前とはなんとも品のない男だ。……さすが、どうしようもないゴミのような弟を好むだけある」
「……なに?」
春太を弟と呼んだ時、すうと周囲の温度が下がった。酷薄な紫の瞳が義兄を見下ろす。
「右京」
そのとき、ルークの呼び掛けに、背後から右京が姿を表した。
「このゴミが目障りだ。さっさと始末しろ」
「かしこまりました」
頭を下げた右京の瞳が獣のように輝いた。気品ある笑みから想像もできない獰猛さ。
義兄が思わず後退る。
「俺たちの天使を貶したんだ。あんた、とんだ命知らずだぜ?」
春太の斜め前に現れた虎牙は、軽口でそう言うと肩を竦めた。
「優しいはるちゃんを虐めるなんて、あのおじさん酷い」
テディが春太の足に抱きついて、泣きそうな顔で義兄を詰る。
すると、周囲で見ていた者たちが眉をひそめて義兄を見た。
愛らしい子供の放った一言で、なにがあったのかわからずとも、誰が悪人かを決めたらしい。
悪意ある視線に晒されると、義兄が冷や汗を浮べる。
皆がいつの間にかやってきたことに、そして春太を庇ってくれたことに驚愕する。
表向きは家政婦でも、春太はルークに拾われた血の提供者だった。それがいつの間にか、こんなにも優しい形に変わった。
それだけで、もう十分だ。これ以上なにを望むのか。
過去のことを思い返しても、昔のように怯むだけじゃなくて、こうして少しずつ進んでいけばいい。
じわじわと再び視界が濡れた。
「もういい。もう十分だ。俺のために、こんな……ありがとう」
「お言葉ですが春太さん。こういう奴はね徹底的に潰さなければ、後からいくらでも湧いて出てくるんです」
まるで害虫ですよ。右京はそう言うと、逃げようとする義兄の元へ近づいた。そして、春太たちには聞こえないように、耳元で何かを囁く。
「……貴方の大切な春太さんは、私たちが責任をもって幸せにいたします。貴方はどうぞ、その歪んた執着心を捨てて消えなさいな。その方がうんと幸せですよ?」
右京は義兄の服を見下ろして皺を伸ばす。そうして、とんとん、と胸元を叩いて笑んだ。
その様子はまるで義兄の弱みを握っているかのようだった。幼い頃からずっと、恐怖の象徴だった義兄が小さく見える。澱みのように心にふり積もっていた感情が徐々に消えていく。
義兄は春太になにかを言おうとした。けれど、ルークが隠すかのように春太を抱き込む。
そのすこしあと、義兄の立ち去る足音が静かに落ちた。
「っおい」
「ごめん。……力抜けた」
張り詰めていた空気が途切れた刹那、くずおれそうになる春太を抱えて、ルークが困ったような怒ったような表情を浮かべる。
今になってやっぱり少し怖かったのだと苦笑した。
皆がいてくれたから、最後まで屈せずに居られたけど、仮に一人だったらどうだっただろう。
「……ほんとに、ありがとうございます」
震える声音で呟く春太を、ルークが優しく抱擁した。
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