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【8】ポンコツクソ野郎

主治医との診察の最中、アリリオさまは俺の手を握っていた。 室内にいるのは、四人だけだ。執事は乳兄弟として長年、アリリオさまと一緒にいる気心の知れた相手だ。 主治医も年配で、アリリオさまの出産に立ち会ったと聞いた。 彼ら二人の前で手を握って俺を元気づける必要はない。 妻を大切にすると夫の評価は上がる。 だが、見せつけるべき相手が違う。タイミングもおかしい。 これでは、良い夫としての振る舞いではなく、アリリオさまが握りたいから俺の手を握っていたことになる。 内心で首を傾げていると「落ち着いたか」と聞かれる。 「側室を設けると貴様がマタニティブルーになり、発狂して自害するとファーラに言われたが、平気そうだな」 ファーラというのは執事の母で、アリリオさまの乳母だ。 親切で穏やかで働き者の年配女性だが、夢の中では解雇されて屋敷には居なかった。現在、住み込みで働いているのだが、お金を持たされて田舎に追い払われていたはずだ。 側室制度に反対したことで暇を出されたのだろう。 俺の子供を育てるのが楽しみだと言っていた。 「母の言葉、間違いではありませんよ。心が不安定になったから、奥様は悪夢を見たのでしょう。あー様、考え直してみるのも――」 「自分の母親がなんでも正しいと思っているのか? いつまで子供のつもりでいるんだ。自分で考えろ。恥ずかしくないのか?」 仲がいいからこその軽口だと分かっていても、室内の空気が冷たく変わる。二の句が継げなくなってしまった、執事の代わりに「目上の方の言葉は含蓄があります」と頷く。 「アリリオさまも側室制度を採用しようと動かれていますから、先に生まれた方はその分だけ知識が多く、行動の種類が増えますね」 わかりにくいようでいて、堂々と「カビの生えた制度を待ちだしてくるバカ野郎には驚かされたよ」と言ってやった。 「そうだな。側室は金がかかるから、他の貴族はあまりやりたがらないらしいな。子供は多いほうがいい」 「お金の問題ではなく、正妻の矜持を蔑ろにして問題になることが多いようですよ? 観劇の主題に多くありますね」 ドロドロな修羅場は側室から始まる。 理解しているのかしていないのか、アリリオさまは俺の手を揉む。もしかして、暇だと手遊びをするタイプなのだろうか。 意外だが、こういう癖が女性の胸を揉みたいという欲求につながるのかもしれない。 「子供、お好きだったのですか?」 「好きではない。苦手だな。孤児院に寄付はするが、顔を出す気はない。あぁ、貴様が孤児院を増やしたがっていたから作らせている。そのうち出来るだろうが、見学は許可しない」 「理由をお聞きしても?」 「治安が悪い」 このポンコツクソ野郎と罵りたくなるのはこういうところだ。 治安が悪い場所に孤児院を作るんじゃない。 きっと治安が悪い場所だから、空いた土地があったのだろう。 アリリオさまは、実際に孤児院が建設される地域のことなど何も知らない。どうでもいいのだ。 どんな悲劇が起こるのかも彼は考えたりしない。 「まだ、子供の受け入れはされていないのですよね?」 「当たり前だ。孤児院は貴様の懐妊祝いだ。欲しがってただろ」 懐妊祝いが側室という最悪な情報だと思ったが、違ったらしい。 孤児院の数を増やしたいと伝えた気はするが、まさか懐妊祝いとして孤児院を作るとは思わなかった。 「孤児院の建物が出来上がりましたら、しばらくの間、公爵家の別邸として使用しましょう。アリリオさまも数日は滞在ください」 俺の言葉に主治医は不安そうな顔を隠さないが、執事は目を輝かせた。 どうやら、彼は賛成らしい。 「治安が悪い場所だと言っているだろう。貴様は頭が悪いな」 「アリリオさまが居られる場所は世界で一番安全です。治安が悪い場所をすぐに安全な場所に変えるのは難しいかもしれませんが、アリリオさまが近くに居るのなら、誰もが心穏やかに暮らせることでしょう」 孤児院の治安を確保するために騎士団を動かすことは難しいが、公爵が安全に暮らすために別邸の周囲を掃除することは出来る。 俺の懐妊祝いだというのなら、街の掃除ぐらいしてもらわないと困る。 アリリオさまが数日でも暮らした孤児院となれば、場所が悪くても人やお金を集めることはたやすい。 公爵と同じ建物で生活したとなれば、孤児院で暮らすことになる子供の誇りにもなる。 なりたくて孤児になる子供などいない。 親に捨てられたり、親を捨てたり、親が犯罪者であったり、行き場がない子供たちの受け入れ先は、正しく、安全であるべきだ。 まだ見ぬ彼らが穏やかで健康的に成長することを祈りたい。 俺たち大人にできるのは子供の世話をするシスターの安全と誇りを守る対策作りだ。 治安が悪い場所に押し付けられる形でやってきたシスターと公爵が暮らしていた場所で働くシスターでは他人からの目が違う。 「あー様を連れて行くことで孤児院に箔をつけるだなんて、常人にはない発想です。新しい都市開発の書類を奥様に見せられては?」 執事の言葉にアリリオさまは冷たい視線を向ける。 アリリオさまが魔獣討伐のため、遠征していたときは俺が代行していた領地のあれこれだが、現在は関わらせてもらっていない。 自分の仕事に手を出されたことが不快だったのだろう。 「ピネラ、貴様は弟に私の補佐官を任せたであろう?」 「はいはーい。すみませんねぇ。執事としても、このぐらいは良いんじゃないかと――」 アリリオさまがにらみつけても執事は気にしたところがない。 乳兄弟として、本当に仲がいいようだ。

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