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【22】言葉が足りない

「不満そうだな。女の頭を割って、血で庭園を汚したいか?」 物騒なことを望んでいるように見えるのなら、誤解だと訴えたい。 「誰が血に染まった庭を片付ける?」 「そういう話ではなく、もう少し彼女から情報を引き出すべきではないでしょうか。……ビジョーア嬢、あなたはどうして自分の相手がアリリオさまだと思い込んだのですか。出会いは仮面舞踏会だったのでしょう?」 アリリオさまが自分を助けてくれないと理解したのか、彼女は自分の席に置いていたらしい小さなカバンに近づいた。 執事や使用人が彼女の動きに警戒をするが、つばで俺を殺害できる人間が武器を持ち出すとは考えにくい。 案の定、彼女がカバンから取り出したのはハンカチだった。 テーブルの上に置かれたハンカチをアリリオさまがすぐにつかんだ。 細工があったらどうするのかと言いたくなる早業。 執事の顔面に放り投げて「洗え」と告げた。 ベラドンナのことなので、ハンカチに香水を振りかけていたのだろう。アリリオさまは香水がお好きではない。 アリリオさま避けに枕や下着に香水をして眠ったりする俺だ。 これは半分の確率で「なんて匂いをさせている」と風呂場に連れて行かれて、お湯を頭からかけられる。その間に使用人たちが枕やシーツを取り換えてくれる。仕事を増やして申し訳ない。 だが、そのおかげで夜のお勤めはなくなることが多い。 お風呂の中であれこれされているせいかもしれないが、アリリオさまの麗しいお顔に似合わない暴れん棒な下半身と正々堂々と戦わずに済む。俺は今まで、真っ向勝負を避けていた。 今後は香水作戦は禁止だ。情熱的でエッチな夜を過ごすのだ。 「あのハンカチは――」 「私のものだ。暇を持て余した王太子に貸したところ、盗まれた」 俺は孤児院の子供たちの手仕事として刺繍を教えている。 刺繍の見本としてハンカチに公爵家の紋章を刺繍したことがある。 あくまで見本として作り、自室に置いていたのだ。 いつの間にか部屋からなくなっていたので、子供たちの誰かにあげたと思い込んでいた。 アリリオさまに渡すことは気後れしてできなかった。 それは間違いない。 「王太子殿下のもとから消えたのですか?」 「そうだ。妻からの贈り物を見せろとうるさかったから渡したら失くすという救いようのないことをした」 「王宮に泥棒がいるのは危ないですね」 公爵家の中に泥棒がいるのもよくないと思うが、俺の物はアリリオさまの物という意識なのはわかっている。 無駄なツッコミは入れない。 「ビジョーア嬢、あなたは公爵家の紋章の入ったハンカチを見て、自分の相手がアリリオさまだと勘違いした?」 「そうです、その通りです。わたくしは、公爵閣下に求められて有頂天になり……側室のお誘いも、正室になるための前段階だとばかり思っておりました」 なにせ彼女には公爵閣下の子供がいるという間違った確信があった。三日三晩愛されていた記憶が彼女の言動を大胆にさせ、辛抱強くもさせていたのだろう。 アリリオさまにその暇がないという事実に思い至らないほど、彼女は公爵夫人になれることを喜んだ。 悪夢の未来と照らし合わせると彼女の絶望も少しは理解できる。 思った通りの場所に行くことが難しいと突き付けられ続けると人は絶望する。現在が悪いのに未来が良くなるはずがないと歩みを止める。 人を蹴落とすことばかりを考えて、自分を高めようとしない。 瞳をうるませて震える彼女は悪夢の中の彼女よりも幼い。 それは何も経験していないからだ。 悪夢の中でベラドンナは辛苦を舐め続けていたのかもしれない。 俺と違って愛されていると思い込んだからこそ、彼女は苦しかったのではないかと思ってしまう。 未来の加害者に対しておかしな共感だ。 許そうとは思わないが、彼女の行動の理由は理解できる。 悪夢の中で俺は自分が死んでも仕方がないと納得していた。 ベラドンナが恨む位置に俺はいた。 そのことが嬉しかった。 彼女にとって目障りだということは、アリリオさまの意識が少しでも俺に向けられているということを意味していた。 それは死を前にしたさみしさの慰めになった。 今にして思えば情けない。 俺は馬鹿馬鹿しい満足感を得るために命を消費したのだ。 その後に起こることを知らないから消極的に選択し続けた。 残される息子のことを思えば、軽く手放せるものでもない。 今は情けなくても生きるために足掻ける。 「アリリオさま、どうされますか?」 「どうとはなんだ。具体的に言え。貴様はいつも言葉が足りない」 こっちの台詞だと言い返したい言葉ばかりをアリリオさまは口にする。人を煽る天才だ。 グッと堪えて「放置されるのですか」とハンカチを指さす。 「ビジョーア嬢に身分を詐称した人間、ハンカチを盗んだ人間」 同一人物かは分からないが、探っていくべきだ。 悪意を持って、公爵家に妊娠済みのベラドンナを送り込んだのは間違いない。子供の父親が何者であるのか、知る必要がある。 ベラドンナを追い払えば終わりという単純な話ではない。

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