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【29】秘密の風習
悩み過ぎて湯船に顔をつけていると「奥様」とリーとライのどちらかに声をかけられた。
そのつもりはなくても彼女たちを無視する形になってしまった。悪いことをした。彼女たちはアリリオさまから、俺の足を洗うよう命令されていた。俺が他の仕事を与えていないこともあって、彼女たちは俺に仕えるのが不本意でも動けない。
顔を上げると圧倒される。
無表情な大柄の女性二人に見下ろされる経験などない。
使用人のはずなのに彼女たちは存在感がありすぎる。
素手で野犬の頭を潰しそうな逞しい拳をしている。
足を預けるのが怖い。
拳闘士だと言われても納得してしまう肩幅と大きな拳。
「アリリオさまの指示だから、従わないといけないかもしれないけど――その」
「いいえ、奥様。我々が仕事をこなしたと報告するより、旦那様以外に触られたくないとおっしゃられるほうが、旦那様はお喜びになられるでしょう」
意外にも俺の聞きたかったことをリーが答えてくれた。
アリリオさまが俺をどう思っているのか、客観的な視点が欲しい。
俺たちのことを使用人たちはどう見ているのだろう。
「喜ぶ……かな?」
俺の言葉に「もちろんでございます」とリーは力強くうなずいてくれた。意外だ。
話をする気はないと無理やり足を洗われるかと思った。そんな想像が恥ずかしくなるほど、無表情のまま流暢に話してくれる。アリリオさまの命令を無視するなんてとんでもないという態度の使用人ばかりなので、驚いた。
魔獣討伐を行う英雄に仕えるのは誉れだ。使用人たちがアリリオさま第一主義でも不思議じゃない。でも、俺だってこの家の人間なんだから、もう少し話しかけられたい。
姉たちがおしゃべりだったから、無言の空間は苦手だ。
「奥様、旦那様にお聞きしたかったことを代わりに答える栄誉をお与えください。ライは簡単な単語以外を口にできません」
上司に進言する軍人のような空気を発する、リー。
俺の中の使用人のイメージよりもだいぶ堅苦しい。
直立不動という体勢が似合うリーは、真面目でいい人だというのは分かった。ライも無表情だが優しい。迷っている俺の背中を押すように「んだんだ」と言っている。
「聞きたいことは、いっぱいあるんだけど……さっきのやりとりの、ガメメの肉質ってどういうことか分かる?」
自分でもどうしてそこから聞いたと頭を抱えたくなったが、気になるところだ。アリリオさまの言葉は、話が飛びすぎてよく分からない。彼女たちは分かっていたのだろうか。
「奥様は宗教上の理由で魔獣の肉を口にするのは問題があると考えられていたのでは?」
「俺が? 俺は別に、食糧として魔獣の肉は問題ないと思ってるよ」
「そのように見受けられましたので、旦那さまも無断で奥様に食べさせていたことを告白されたのでしょうね」
告白されてませんけどと言いたかったが、グッと我慢する。
話が進まないので、リーの言葉にツッコミを入れずに受け取る。
「公爵家というよりも王家の話でしょうか。魔獣の肉は栄養が豊富なので、大切な相手への贈り物にするという習わしがございます」
初耳がすぎる。生まれて初めて聞いた。
魔獣を憎悪の対象とする過激派のことは知っていても逆は知らない。
王家の人気が下がらないように秘密の風習になったのかもしれない。
黙って食べさせていたことに思うところもあるけれど、アリリオさまの大切な人間になっているのは嬉しいことだ。
「魔獣の血肉は精力剤として優秀だとお聞きします。魔獣を討伐して、その血肉で宴を開く風習に聞き覚えは?」
「ある」
「宴のときに出来たと思われる子供がポロポロ生まれることはご存じですか?」
「魔獣の出現という危機的状況にさらされたことによって、次代に命を繋げようと母体が子供を授かりやすくなるという説は聞き覚えがあるけど――魔獣の肉を食べたからっていう話は知らなかった」
大切な相手だから贈られたのではなく、妊娠促進用だと知ると覚悟していても気落ちしてしまう。
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