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〔一〕自分だけの特別な相手以外を気にかける意味などない

名前を呼ぼうとして口を閉じる。 誰にも聞かせたくない。 呼ばせたくない。 この感情を誰かと分かち合おうとも思わない。 視線で合図をすれば、リーとライは一礼して下がった。 体をあたためるための湯船は眠りを誘って、生まれてもいない子供の支配を受けたのだろう。 今日は朝からおかしかった。 孤児院の子供が貴族に殴り殺されたときでも泣くこともなく対応していた。 そんな彼が泣くなんて異常だ。 特別強いわけじゃない。 そうしなければ、座り込んで立ち上がることが出来なくなるからだ。 子供の葬儀が終わって、倒れかけた。 自分の身体を支えられないことを不思議そうにしていた。 精神力や体力を見誤っているわけではない。 孤児院の子供たちのために気を張っていたという意識がない。 緊張の糸が切れたという自覚もない。 努力を自覚しない人間というのはいる。 自分の行動の結果が、希望通りにも関わらず頑張りを認めない。 想像以上の結果を手にしないと自分を褒めることをしない。 自分に対する冷酷さに思い至ることもなく、他人のために自分を消費し続ける。 「貴様は、に対する感謝が足りない」 不服だったのか、黙り込む。 いつもなら卑屈な笑いで受け流すが、今日は弱っていたのか何も言わない。 手を握ると湯船の中にあったはずなのに冷たくなっていた。 涙に濡れた頬が憎らしくなる半面、頼るように抱きついてきたのは成長だと思った。 誰の手も取らず、静かに一人で震えている弱さを自覚していない。 救えなかった誰かが夢に出てくるのか、夜中に口から謝罪がこぼれ落ちることがある。 哀れだと思うのは簡単だが、目の前の愚か者に関して言うなら自業自得というやつだ。特別強いわけではないが、とてつもなく我が侭な人間だった。 自分の権限の中で救える人間は救わなければ、落ち着かない。 他人を見捨てることが出来ないのは、貴族として致命的だ。 伴侶という面でいえば、私以外の誰も選ばないだろう。 たとえ、誰かに選ばれたとしても先に手にしたのは私だ。 他人に触れさせることなどしない。 奪いにくる人間は誰であろうと叩き切る。 「お湯、ありがとうございます。……いろいろと、混乱していたようで、体調不良も、自覚がなく」 考えた末に出てきた言葉は。 手は未だに冷たく、顔に張り付く笑いは疲れ切っている。 涙の理由が、本当のところは分かっていない。 体がつらいと言っていることを心が理解しない。 愚か者は自分の努力を評価しない。 何も成していないと自分を過小評価して、居心地の悪さを感じ続けている。 愚かだと告げても聞いてはいない。 何も分かっていないとなじれば困ったような瞳で見つめてくる。 服を脱ぎ捨てて、バスタブに入る。 バスタブと呼ばれる魔道具は、国によってはマジックアイテムと呼ばれる勇者が残したアーティファクトだ。 異能は神が与えた貴族への贈り物だが、それ以外の奇跡をもたらすものは存在が否定されている。 魔法も魔術も呪術も存在しないことになっているが、一定以上の貴族は他国から手に入れた魔道具を持ち合わせている。 水も炎も光も生活を豊かにするための奇跡があるなら使うべきだ。 異能は他国で言うところの魔法のような柔軟性はない。 生活を助けるような異能を持つ一族は一定以上の人数を維持する義務がある。増やし過ぎてはならない大多数の貴族とは違う。 貴族の数が管理されているのは、内乱で荒れる経験があったからだ。祖父である先王の代は、それは酷かったと聞く。 腹違いの兄弟が大量に居たはずなのに現王と父以外の兄弟はすでに亡くなっている。 この国のいびつさは、異能だけを持ち上げて他国の技術をおとしめているにも関わらず、日常的に使っていることだ。 魔道具に関しては、勇者が残したアーティファクトであるという点を言い訳にして貴族の生活に根付いている。 猫足と呼ばれる種類のバスタブは二人で入るには狭いが、それがいいのだろう。 足の間に足を延ばす。 狭いので足が当たっても仕方がない。 一緒に入る場所が大浴場であったなら、無理にでも距離を取ろうとしただろう。 たとえ、近くにいたいと思ったところで、それが出来るような人間ではない。自分がしたいことを誰よりも本人が理解していない。 濡れた白い肌着が水分を含んで、肌に張り付いている。 気持ち悪いと思わないのか、濡れた肌着の感触に慣れて違和感を忘れてしまったのか。 白い肌着は不健康な顔色を際立たせていた。 くちびるがカサついて、くすんだ色になっている。 指でくちびるをなぞっていると口が開いた。 何を思ったか、こちらの指をくわえてきた。

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