86 / 113
【22a】ふたつの激情
夫である相手と両思いだったら嬉しいか、過去の自分に問いかけたら、どう答えるだろう。
出会う前の年齢一桁の自分なら、両思いは嬉しいし、当然だと考えるかもしれない。何も知らない子供だから、心のままに言える。
出会った後の十代前半の自分なら、あの出会いは何だったのか憤るかもしれないが、喜んで受け入れたに違いない。
懐妊の話をしたときに両思いだと知ったなら、喜びと安心で膝から崩れ落ちたかもしれない。自分の中にあった不安は、杞憂だったのだと分かる。
やっと本当の意味で、公爵家の一員になれたと思えただろう。
今の俺には、ふたつの激情が存在する。
誰にも愛されないと思って死んだ――いいや、死んでいなかった、無念を抱えた俺の記憶が、どうして、今の俺ではなく、絶望していた俺に伝えてくれなかったと憤る。
これはありえない未来に対する怒りなので、ぶつける対象が違う。
アリリオさまと相対している今の俺ではない俺の末路を彼には言えない。
そう思って、そちらを抑え込めば、お腹が熱くなる。
アリリオさまの言葉の真意を問いただすために彼を傷つけるための言葉を吐きだそうとする。
だって、ズレている。
論点をずらされている。
両思いであることは、嬉しいけれど、そうではない。
俺たちが話すべき内容は、子供の話だ。
すでに成長している息子の姿を見てしまっている俺は、生まれていない子供に思い入れがある。そのことをアリリオさまに話してはいないが、察しはついていたはずだ。
俺の性格を理解している顔をしているのだから、俺の今までの行動を知っているのだから、分かっていたはずだ。
はず、はずと相手に勝手に期待をかけて、それが満たされていなかったら不満に思うのは間違っているのは分かっている。
それでも、勝手に決めつけられたくない。
これは、俺のものだ。アリリオさまに勝手にされるわけにはいかない。
お腹を撫でながら、気持ちを固める。
麗しい顔を叩いてしまった罪悪感は消えた。
一回目は反射的だが、二回目は意識している。
拳はまるで痛くないが、体が熱い。
『私がお前と結婚したのは、お前を幸せにするためだ』
喜んでガッツポーズのひとつもしたいセリフだが、気づいた。
いつも「貴様、貴様」と言われ続けているから、引っかかった。
あの日に言われた言葉も焼き付いているので、覚えている。
『私はお前を愛することはない』
アリリオさまからすれば、つくろわずに出てきた言葉だからこその二人称の違いなのかもしれない。
用意していたわけではない、とっさの言葉。
過去の話だと切り捨てながら、恥じ入るように耳まで赤くした。
俺が傷ついて、踏み出すことを恐れた言葉は彼にとって、少年らしいささやかな抵抗や意地っ張りだったのかもしれない。
心にもない言葉を口にする時代を俺だって通り抜けてきたので、アリリオさまの気持ちが小指の先ほどは理解できる。
俺の積年の悩みは、アリリオさまがちょっと恥ずかしそうにするぐらいでなかったことになる。俺は自分の安さが恥ずかしい。
自分が口にした言葉を過去のものだと流しながら、覚えているということは忘れていないということだ。
俺と同じで、ある意味では囚われていたのだろう。
だから、許せる。謝られてはいないけれど、許せる。
この件に関しては、アリリオさまだけではなく、俺も気にし過ぎて、きちんと向き合えていなかった。
再現されない悪夢の中の俺の後悔は俺だけのものでいい。
傷口を見せつける必要はない。
けれど、子供のことは別問題だ。
俺が大切だから、子供を殺すなんていうのは詭弁でしかない。
本気で俺のことを思っていたら、そんな言葉は出てこない。
「ハッキリ言ったらどうですか? 父親になるのが怖いのでしょう」
俺は殴ったことを謝ったりしない。
自分の不安を俺のためみたいに言わないで欲しい。
母体を守るために子供を排除するという気持ちもきっと嘘ではない。
アリリオさまは、本気で俺のことを心配してくださっている。
けれど、それだけではない。
俺のことを好きだというなら、子供が生まれた先のことを考えたはずだ。
子作りしておきながら、自分が親になる自覚を彼はしなかった。
戸惑った顔は、思ってもない考えを言われたからだ。
「自分の子供をかわいがることが出来ないとアリリオさまは考えているのではないですか? そして、その姿を俺に見られたくないと思った。俺が子供を大切にしない人が嫌いだからだ」
アリリオさまが俺のことを好きだと思ってくださるなら、子供を嫌がる一番の原因は、こちらだ。
俺の安全を脅かすものを排除したいのではなく、俺から嫌われる可能性を排除したい。
命だとか、自分の跡継ぎとか、そういったことは二の次で、俺の前で格好をつけようとしている。
「不安があるなら、そう言えば良かったんです。俺に黙って堕胎薬を飲ませようとしていたんですから、悪いことをしている自覚があったのでしょう」
口にしながら、アリリオさまの心を理解する。
聞いたこともない言葉を解読するために耳を澄ませているような気配。
アリリオさまは、俺の反論が的外れでもきちんと聞く人だ。
子供とうまくやっていけないはずがない。
孤児院の子供たちと触れ合っているアリリオさまは、子供嫌いには見えなかった。
俺の視線を気にしてはいたが、嫌ってはいなかった。
父親になりたくない気持ちもあったかもしれないが、もっと大きいものはもう一つのほうかもしれない。
それはとても残酷だ。
ともだちにシェアしよう!