103 / 113

【5b】反対のことを心に念じる

間違いを犯しているような、後ろ暗い羞恥心ではない。 失敗を恐れて、縮こまっていた日々が馬鹿馬鹿しくなる。そういった、幸せの中にいる。 背中をなぞる指先が、心に直接、触れられている気分。 地に足がつかない感覚をよしとしている。 正気に戻れと浮かれている自分を叱りつける自分はいない。 期待は失望に変わる、そんな後ろ向きな覚悟はいらない。 何かを失敗したところで、俺たちは変わらない。 今日だけで、失言も、不適切な行動も、散々した。 いまさら、もう、恥ずかしいことなんてない。 無意識に鼻が動いて、喉が鳴る。 アリリオさまから感じる香りは、未だに甘くて、美味しくて、心地が良い。 感覚的に夜ではなく、晴れた日のランチタイム。 花畑でのピクニックという、夢の話。 眠っているときの中の話ではなく、願望の中のピクニック。 今まで、ピクニックは何度もしたが、良い思い出がない。 俺の中の理想は、本の中の光景だ。 優雅で楽しい、特別なひととき。 外で食べるご飯は、いつもとは違う味がするという。 本の中では素敵なイベントであるピクニックだが、やってみると楽しくない。 砂ぼこりが食べ物に入らないか心配になるし、鳥にお弁当を持っていかれるし、水筒から飲み物をこぼしてしまう。 そもそも、俺がしているのが、優雅なピクニックではなく、ゆるいサバイバルなのかもしれない。 風景を楽しみながら食事をしていたら、警戒心がないと叱られてしまう。 食事中こそ気を配れとアリリオさまは言う。 そんな殺伐としたピクニックは、俺が求めていたピクニックではない。 息を吸い込めば、お気に入りの花とお茶と菓子と果物の香り。 現実ではない、夢の中のピクニックでは、こんな香りの中にいるはずだと感じた。 好きな花の香りがするので、場所として花畑を連想するが、違う。 これは加工済みの花の香りだ。 生花に顔をうずめると、青臭くてイマイチだ。 花畑で寝転がったので知っている。 アリリオさまと物理的に距離を取りたくなる瞬間が多々ある。 冷たい視線や暴言に耐えかねていると思っていた。 これ以上、アリリオさまからの好感度を下げたくないとも思っていた。 問題はそこじゃない。 気にしていたのは、自分の状態だ。 汗ばんでいる自分。 射精したものを浴びてしまっている自分。 近づきたくない。触れたくない。居心地が悪い。遠ざかりたい。 アリリオさまではなく、自分が臭いのではないか。 そう思って、勝手に焦っていた。 精液や汗の匂いが、相当、俺は苦手らしい。今更気づいた。 密着する肌の温度に緊張しても、飛び退きたいとは思わない。 今は並べられた好物の匂いの前から、体は動こうとしない。 「鼻がいい、自覚はあるか?」 「……ありません、けれど、いいんですか?」 悪かったら急に言い出したりしない。 鼻息が荒いせいでムードが壊れたので、今日は解散なのだろうか。 「じゅるるの実で作った、ローションは……ローションを使っているときに効果が出るものだ。それ以外は残り香だ」 ローションを小瓶に入れて、枕元に転がしている。 使っている状態とは言えない。 俺が感じている香りは何なのだろう。 「暗示が効きやすいという自覚はあるか?」 からかうような声音に揺れる喉。 俺の視界はアリリオさまの肩しかないが、笑っているのは分かる。 これは、どこからどこまでの話だろう。 教えてもらっていたローションの効能が嘘なのか、俺の鼻がいいのが嘘なのか、それとは全く違う話題なのか。 「貴様の好きな話にもあるだろ。視界をふさぐと、他の感覚が鋭くなる、そんな話が」 今の俺は、嗅覚が異常事態なのでアリリオさまの指先に敏感な反応を返してしまう、と、そういうことなのか。 遠回しなフォローは、遠回しすぎて気づけない。 背中を撫でられているだけで、達しそうなほど高まっている。 そんな自分に混乱していて、冷静じゃない。 夜にベッドの中で、昼のピクニックについて考えるような、場違いさ。 おとなしく、アリリオさまに身を任せて、頭を空っぽにしていればいい。 そう思いながらも、何かをしなければいけないという気持ちが消えない。 何度大丈夫だと自分に言い聞かせても、疑いが湧いては消える。 完全な安心を求めている。 好きでない人間でも、男は相手をしなければいけない。 貴族の当たり前を考えれば、俺の当たり前は高望みになる。 好きな相手に愛されて抱かれたい。 ロマンティックな恋愛小説が嫌いじゃない。 自分が主役のように甘い世界に居ないとしても、憧れは憧れとしてある。 優しく体を押し倒されて、見つめられる。 何を考えているのかと、問いかけるような瞳に「キスしたい」とねだる。はしたないと口を閉ざしたい一方で、当然の権利だと思った。 もっと、触れあいたい。 今までの時間を埋めるように溶け合いたい。 自分のワガママさ加減に振り回されている。 触れたいけれど、触れたくない。 近くに感じたいけれど、遠くにいたい。 願望を抑え込むために反対のことを心に念じるくせが出来た。 そのうち、どちらが本当か分からなくなる。 愛されないなら、愛さないから、愛そうとしないという、そんな馬鹿みたいな構図と同じ。 愛されているなら、愛したいから、愛し続けようとする。 くちびるには軽く触れるだけで、アリリオさまは離れた。 不満が口から出る前に、首や肩にキスされる。 キスは、口と口とは限らない。

ともだちにシェアしよう!