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焦がれる自覚
しばらくすると部屋中に香ばしいコーヒーの香りが広がって、大きめのマグカップにそれを注いだ桃香先輩が向かいの席に座った。
テーブルにカップを置いて、長い足を組んでファイルをその足の上に置いて捲り始めた。
…………。
「あ、あの、桃香先輩? 夕飯は?」
視線をこちらに向けるとコーヒーを指差した。そして視線を手元に戻した。
夕飯はこのコーヒーで済ませるということだろう。
「それだけじゃ足りないんじゃないですか?」
俺が聞くと、ファイルをポンポンと叩いた。
忙しい。暇が無い。そういう合図だ。
それをされると邪魔しちゃダメだと相良先輩に教えられていた。だから俺はそれ以上桃香先輩に話しかけなかった。
じっと盗み見ている。
右手にもった赤ペンが動いてファイルに印をつける。
そのペンの背を時々、癖なのか口元に持ってきて噛む。
薄い唇に赤い色がとても映えて、視線を奪われるのだ。
あの唇……。
じっと見つめていると桃香先輩が顔を上げた。
そして、ペンを持った手で俺の顔を指す。
そのペン先が俺の指を弾いた。
唇に触れる癖。最近ついたその癖は、あのキスのせいだ。
つい触れてしまうのだ。熱い唇を思い出して。
「別に……これは……」
赤くなって手を服で擦った。
桃香先輩はすでにファイルに視線を戻していた。
視線を戻したと思っていたのに、桃香先輩はその赤ペンをファイルの間に挟むと閉じて立ち上がった。
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