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1ヶ月後

「ハルくん、頑張ってる?」  春の陽気が漂う穏やかな午後。井上が陽斗のマンションを訪ねてきた。今日は井上のお店は定休日なので、暇を持て余していたらしい。 「おん、いらっしゃい」 「勉強の邪魔した?」 「ええよ。丁度休憩したかったし」 「ほんなら良かったけど」  そう言いながら、井上が陽斗のこじんまりしたワンルームマンションに足を踏み入れた。これお土産、と箱一杯のエクレアを陽斗に渡しながら、部屋をぐるりと見渡した。 「もう、ほぼ片付いたね、荷物」 「おん。もともとそんなになかったしな。ほとんど処分したし」 「そっか……」  井上がフローリングのカーペットの上に座って、何か言いたそうな顔をして陽斗を見た。 「何?」 「ハルくん……。ほんまにこれで良かったん? 斉藤さんのこと」 「……その話はなんべんもしたやろ。これでええねんって」 「やけど、こんな逃げるみたいに引っ越しせんでも。ちゃんと挨拶してからでも良かったやん」 「……会ったら決心が鈍ると思うたから」  陽斗は苦笑いにも近い笑顔を井上に向けて、テーブルに置いてあったコーヒーカップを手にした。  1ヶ月前。陽斗は斉藤から離れる決意をした。最後に会った日の1週間後に、斉藤が再びアメリカ出張のため家を空けたタイミングで、斉藤に黙って引っ越したのだ。同時にゲイバーも辞めた。携帯も変えた。当分、貯めたお金を切り崩して生活する予定なので、贅沢はできない。引っ越し先は簡素なワンルームマンションにした。  今は近所のコンビニでバイトしつつ、空いている時間を例の夢のための勉強に費やしている。 「やけど……。きっと斉藤さん、悲しんでんで。ハルくんが急に何も言わんとおらんくなって」 「そんなことないやろ。まあ、俺の八重歯については残念に思うてるかもしれへんけど」 「……俺はハルくんほど斉藤さんのこと知らへんからはっきりしたことは言えへんけど、斉藤さんは何もハルくんの八重歯だけが目当てでハルくんと友達しとったわけちゃうと思うで」 「そうかもしれへんけど。やけど、俺に邪な気持ちが芽生えた時点で、あかんねん。相手はノンケやから。迷惑はかけられへん」 「ハルくん……」 「もうこの話は止めよ。終わったことやから」 「終わったことって……。始まってもないやんか」 「健太……」 「始める前に、ハルくんが逃げ出したやんか」 「そうは言うけど、逃げんかったところで始まることもなかったと思うで」 「そんなん分からへんやん」 「分かんねん。そういうもんやねん。よくあんねん、ゲイには」 「…………」  井上が、はぁっと小さく溜息を吐いた。広がる沈黙を誤魔化すように、陽斗はカップからコーヒーを音を立てて一口飲んだ。

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