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第6話 忙しい日々
「この患者さん昨日まで点滴のメインにソリタT3を使っていたけれど、今日からソリタT1に変わったよね?どうして変わったかわかる?」
「えっと……」
「わからない?」
「……はい。参考書で調べていいですか?」
「いいよー。10時に点滴切り替えるから10分で調べてね?点滴切り替えたら受け持ち患者さんのバイタル《バイタルサインの略》と観察に回るよ」
「はい」
園さんは他の受け持ち患者さんの点滴作りに戻り、俺は急いで病棟にある参考書が置いてある戸棚に早足で向かう。
情報を読み取ってたけれど、T1とT3の違いはあまり気にしてなかった。他患者さんの利尿剤の追加指示や午前中にある上部内視鏡検査《口や鼻から細い管を入れて胃などを観察する》にばかり意識を取られていた。
――病棟勤務が始まって約3週間。最初はプリセプターについて回るだけだったのが、1人の受け持ち患者さんを持ち、今ではフォローをしてもらいながら4人の患者さんを受け持っている。
朝のミーティングが終わり、動けない患者さんの清潔援助、点滴準備、バイタル、医師の指示受け、内服薬確認……。患者さん1人であればゆっくりと業務が出来るが現在4倍。タイムプレッシャーに加え、知らないことの多さ、慣れない事が続き毎日が目まぐるしい。
直斗は先に患者さんのバイタル周りに行くようで、電子カルテが乗ったカートを押して佐々木さんと一緒に部屋に向かっていた。
10分という限られた時間なので内心焦りながら、答えが載ってそうな参考書を片っ端から開く。
(点滴の違いってことは薬の参考書か?……あ、あった。へぇ……補液に含まれるNaやCI、Kが違うのか。T1にはKが入ってない。T3はブドウ糖が多い。……で、結局何で変わったんだ?)
とりあえず中身が違うのはわかったが、何故変更されたのかはわからなかった。他の参考書を見てみるが答えが出ない。
「T1とT3……。Kが多くてブドウ糖も多い……。膵臓がんに関係あるのか?」
「T1とT3がどうしたの?」
「わっ!」
「えっ」
近くで声がしたことに驚いて大きな声とともに身体が跳ねてしまった。振り返ると櫻乃先生も驚いた顔で佇んでいる。集中して探していたからか、近くに誰か来ていたが気づかなかった。
「あっ、す、すみません!大きな声出して」
「こっちこそごめんね。T1とT3ってソリタのこと?うちの患者さんの点滴、朝変えたからそのことかな?」
(あ、櫻乃先生の担当患者さんだったんだな)
「えっと、T3からT1に変わった理由がわからなくて……、今参考書で調べてます」
「そっか。でも見た感じ、つまずいてる?」
「……はい。T3の方がブドウ糖が多くて、Kとかが入ってるのはわかったんですけど、何で変えたまではよくわからなくて」
「そこまではわかったんだ。じゃあ後はアセスメント《問題点を分析すること》だね」
「アセスメント……」
(えっと、この患者さんは膵臓がんで……抗がん剤の治療をしたけど副作用で食欲不振が出ててご飯あんまり食べてないんだよな。でもそしたらブドウ糖がいっぱい入ったT3の方が良くないか……?)
……どうしよう、わからない。
「じゃあ野澤君。ヒントをあげる」
「ヒント?」
見かねたのか櫻乃先生が助け舟を出してくれるらしい。
「うん。患者さんのカルテ一緒に見てみよう」
パソコンの前に座り、電子カルテを開く。櫻乃先生はその患者さんの採血結果画面を見せてきた。そういえば今朝採血してたな。他に読み取る情報が多くてちゃんと見てなかった。
「採血結果で気になるところある?」
「気になるところ……」
過去の採血結果もずらりと画面に並んで表示されているので、どう変化しているのか見ていく。
……炎症所見は横ばい。アミラーゼは少し下がってる……。腎機能は……、
「少し腎機能が悪くなってる?」
「そう正解。腎機能が悪いと採血でどう変わるかわかる?」
「えっと……BUNとクレアチニンが上がります」
「そう。あとKが高くなる。まだそんなに上がってないけどね」
「あっ、だからKがないT1に?」
「正解。ご飯あまり食べれてないからT3で1日に必要な水分と電解質を補液してたけど、抗がん剤の治療で腎機能が悪くなったから輸液変えてちょっと様子見をします」
「なるほど……」
だから変わったのか。腎機能低下は抗がん剤の副作用で、高Kにならないように輸液を変えた。
「ありがとうございます。忙しいのに教えてもらってすみません」
「ううん、俺から教えるって言ったんだから気にしないで。お役に立てて良かった」
ニコリと笑うとアーモンドみたいな目が三日月になる。その言葉が嘘ではない態度に、本当にいい先生なんだなと思う。
櫻乃先生にお礼を言って、点滴を作っていた園さんのところへ戻ろうとしたとき、ナースコールが鳴った。
(あれ?でもこのナースコール、音がいつもと違う?)
不思議に思っていると点滴準備室からバッと園さんが出てきた。声をかけようとすると、園さんは俺の事には目もくれず、ナースコールが鳴っている部屋をパネルで確認する。その顔は真剣な表情で、いつもの話しかけやすい雰囲気はない。どうしたのか不安に思っていると、遠くで緊迫した声が聞こえる。
「急変!512号室!」
園さんはバッと辺りを見て、俺を見つける。
「救急カート《薬剤や酸素投与、緊急挿管が出来る物品が入っている》とか持っていくよ!」
「は、はい!」
園さんと俺はスタッフステーションの端にいつも置いてある赤い救急カートとDC《除細動器。心臓に電気ショックを与えて正常な脈へ戻す》を持って512号室に向かう。
患者さんの容態が急変したなんて、働き出して初めてのことだ。緊張でドキドキしながら部屋につくと、先にバイタルに回っていた他の看護師達も集まってくる。個室の前は人と物で溢れかえる。
「多量吐血です!JCSⅡ-30《意識レベル》、血圧75/46、脈拍112、酸素5Lでサチュレーション《身体の中の酸素量》は93%!」
「既往歴に十二指腸潰瘍がある患者です。窒息はないみたいだから、点滴ルート2本取って。どっちか先に取れた方から生化・CBC・血型《血液検査の内容》で取って。結果で輸血検討します。点滴はラクテック500繋げて全開投与」
櫻乃先生はそのまま病棟にいたみたいで、既に患者さんの状態を確認し、先頭を切って指示を与えている。消化器疾患だから元々櫻乃先生の担当患者さんなんだろう。俺はどうしていいか分からずに邪魔にならない位置で処置を見る。ふと視線を外すと直斗も俺と同じように離れた位置で見ていた。
(あれ?直斗のやつ何かキツそうだけど大丈夫か……?ああ、そういえばこの部屋の担当、今日は直斗だったか)
自分の部屋持ち患者さんの容態が急変したとなればツライかもしれない。俺は対応している先輩たちの邪魔にならないように直斗の元へいく。俺が近づくと直斗も気付いてくれた。
「大丈夫か?」
「昭仁……」
近くで見ても顔色がいつもより悪く青白くなっていた。大丈夫、と小さい消えそうな声で返事がある。
「緊急で処置するから内視鏡室に誰か連絡して。バイタル安定した俺が連絡を……」
櫻乃先生が指示を出していると、急にふわりと香りが漂ってきた。嗅ぎ慣れた匂い。ハッとするように櫻乃先生や看護師が一瞬動きを止める。
「ヒートだ!」
そう。この匂いはΩのフェロモンだ。
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