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第7話 忙しい日々②

蜜を含んだ甘い花のような香りは急変した患者さんから香っていた。たださえヒートの時は身体がキツいのに、こんな急変しているときにヒートが起きるなんて。酸素投与で酸素の値は安定していたのに、患者さんの呼吸が喘ぐような浅い頻呼吸に変わり、先輩達も焦りの表情が見えた。 「櫻乃先生!マスクを!」 「抑制剤何を使いますか?!」 「酸素6Lにあげます!」 急かすように先輩看護師が畳み掛けて櫻乃先生に伝えているのに対し、櫻乃先生は冷静に答えた。 「ハルライトを0.5A筋肉注射して。残りの0.5Aは生理食塩水19mlに混ぜて2.0ml/hで静脈投与開始。抑制剤効いてきたらサチュレーションは上がると思うから酸素量調整していこう」 「はい!」 ハルライトは発情抑制剤の一つだ。Ωは人によって抑制剤の効果も副作用も違うため、そのΩに合った抑制剤でなければ毒にも薬にもなる。特に今のような生命が脅かされているときは使い方が難しいと授業で習った。 櫻乃先生は指示を出した後、救急カートに乗っていたN95マスクを先輩看護師から受け取り着用する。 「櫻乃先生すげぇ……」 的確な指示に急変に動揺しない精神。先輩の看護師はみんなどこかしら焦っているのに、先生1人だけが冷静だ。βでもΩのフェロモンは冷静ではいられないはずなのに、マスクつける前でも顔色ひとつ変えなかった。 患者さんは輸液投与により、血圧と酸素が安定してきた。フェロモンも少しずつ薄れてきて、持ち直してくる変化に俺は感動する。 多分ここにいたのが担当医の櫻乃先生でなければ、適した抑制剤の投与が出来ず、患者さんは悪くなっていたかもしれない。そう思うとますます櫻乃先生の凄さを感じた。直斗も自分と同じように感じているのではないかと思い、隣に目線を向けると予想外に下を向いて附いている。 「直斗?」 まさか見ていないのだろうか。俺たち新人は何も出来なくても、これからのために先輩たちの動きなどを観察して、今後の看護に活かさなくてはならない。見てないなんてわかったら、多分プリセプターの佐々木さんも怒るんじゃないだろうか。 「直斗、ちゃんと見てたがいいぞ」 先輩達に聞こえないように直斗の耳元で囁くと、ふわっとまたフェロモンが漂ってくる。患者さんのヒートは一度弱くなったと思ったが、また濃ゆくなったようだ。フェロモン独特の甘い香りが漂う。 ……でも直斗の方から強く香ってくる気が……。 「まさか……」 直斗がゆっくりとしゃがみ込んで、肩で息をし始める。ぶわりと匂いが強くなり、俺は確信する。 直斗がヒートになった! ヤバい。こんなタイミングで!どうしていいかあぐねていると園さんがすぐに直斗のヒートに気づく。 「永江君抑制剤は?!」 「……はぁ、はぁ」 直斗の耳に届いていないようで、俺は園さんが言ったことを直斗の耳元で伝える。直斗は絞り出すように声を出した。 「か……、鞄の……、中……っ」 「野澤君、永江君は何て言ってる?!」 「鞄の中にあるそうです!」 「じゃあ隣のシェルターに連れてって、野澤君が抑制剤取ってきて!ここは良いから永江君に付き添って!落ち着いたら行くから!」 「わかりました!な、直斗行くぞっ」 「……っう、……ごめ、ん……っ」 上手く歩けない直斗を支えるように、俺は部屋を出てシェルターへ向かう。部屋を出てすぐ、βの先輩看護師である谷口さんが他患者の歩行介助をしているところに出くわした。 「512号室は人手足りてる?……あれ、永江君大丈夫?……って、この香り」 谷口さんが焦ったように鼻を指で摘み、口呼吸をする。鼻呼吸よりもフェロモンの影響が受けにくくなると、いつかの休憩中に言っていた。 患者さんは1人で歩けない人だったので、谷口さんはほっぽり出してN95マスクを取ってきたり、距離を置くことは出来ない。俺も直斗を支えているので付いていないとダメだ。 ヒートになった患者さんは個室で締め切っていたので、あまりフェロモンが漏れ出なかったのだろう。このままじゃ直斗のフェロモンに当てられてしまい、大変なことになる。シェルターが近くてよかった、早くシェルターに入らないと……! 俺は直斗を引きずるようにシェルターの中へ連れていくいく。谷口さんはその一部始終をジッと見ていて、先程よりも熱を浴びた目にゾワッと恐怖を抱いた。フェロモンは人を変える――。扉が閉まり、ホッと安心する。 「はっ……、はぁ……」 「横になるぞ」 俺は直斗をシェルターのベッドにゆっくりと横にした。直斗のポケットに入っていたロッカーの鍵を借りて、布団を掛けて、再びシェルターから出る。 谷口さんは先程いた位置より、トイレの方向に少し進んだ場所で患者さんの介助を普段通りにしていた。よかった。理性は失っていないみたいだ。 俺は急いで休憩室であるスタッフルームに向かい、直斗の鞄からペン型の発情期抑制剤を取ってくる。 「待たせた!持ってきたぞ!」 「あっ……、はぁ、はぁ……」 直斗はベッドにうつ伏せになりながら、シーツに局部を擦り付けて泣いていた。俺と目が合って一瞬身体が強張るが、腰の動きはすぐに再開する。 友人の痴態に一瞬たじろいだが、変に意識すると直斗が後で辛くなる。俺もヒート時は同じようになるのだ。早く楽にしてあげないと。 「直斗、抑制剤を腹に刺すからちょっと我慢して」 「うっ……うぅ〜……っ」 直斗の頬にポロポロと涙が溢れる。恥ずかしさや苦しさや気持ちの良さが入り混じった感情が読み取れた。 ペン型の注射器には直斗の名前と、緊急時に使う使用量が書いてある。俺はペンの上部にある目盛りを23にセットして、短い注射針を直斗の腹部に突き刺した。細い針なので痛みはない。 皮下注射なので効果が出るのに10分ほどかかるが、薬剤が効いてきたなら少しずつ身体も楽になるはずだ。 「直斗、注射打ったからあと少しの辛抱だ。薬効くまで俺出ていくけどそれでいいか?」 「……っうん……っ」 「わかった。また落ち着いた頃に飲み物とか持って来る」 俺はすぐに部屋から出て行き、扉を閉める。しっかりと鍵がかかったことを確認して、ふぅと息を吐いた。

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