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第8話 忙しい日々③
(よかった。直斗はこれで落ち着いてくるだろう。飲み物と……そうだ、何か軽く摘める物を休憩に入ったら買ってこよう)
時計を確認し、この後の段取りを考えていると、隣部屋から櫻乃先生が出てくるところだった。
「採血と内視鏡の指示出すからちょっと離れるよ。スタッフステーションにいるから何かあったらすぐPHSに連絡して」
櫻乃先生は俺に背を向けるように部屋から出てきたため、俺が廊下に佇んでいたことに気付いていないようだった。
てっきりそのままスタッフステーションに向かうと思っていたが、櫻乃先生は反対の方向に足を向け、男子トイレに入っていく。膝近くまである白衣であるため、白衣の内側の状態は見えていなかったが、前屈みの姿勢に感づいた。
(やっぱりβの先生もフェロモンの影響を受けてたんだ)
局部が変化し、気を沈めるためにトイレに入ったのだろう。βの谷口さんだってフェロモンを間近で嗅いでいつもと様子が違っていたし、櫻乃先生だって顔に出さないよう我慢していたけれど、あんなに間近でフェロモンに当てられたら身体の変化は仕方がない。
やはりフェロモンの影響は怖い。
あの温厚そうな櫻乃先生ですら変わってしまう。
温和な人だって、いい人だって、フェロモンには抗えない。
"――お前なんかのフェロモンに抗えないなんて"
不意に昔の事がフラッシュバックした。身体が強張り、走馬灯のように映像が頭の中に流れていく。
映像とともにカビや汗の臭いに混じり、自分から香る匂いを思い出す。
薄暗い空間――、窓から差し込む光――、逆光で見えない顔――。
荒い息遣いに、汗でベタつく手、嫌悪を含む濡れた声……。
息を上手く吐き出すことが出来なくなり、息苦しさに顔が歪む。
「……はっ、……はっ」
落ち着け。大丈夫、大丈夫だ……。焦る意識を落ち着かせようと、目を瞑り、いつもより深く、長く息を吸う。肺に沢山空気が入るように。隅々まで空気が行き届くように意識する。
嫌な思い出なんかじゃない……。
一樹が生まれたんだ。
俺の大切な、大事な、宝物。
一樹の顔を思い出していく。
初めて産声を上げた時、ホッとして、嬉しくて涙が出た時。
初めて歩いた時。
俺のことを好きだと笑顔で言って頬にキスしてくれた時――。
苦い映像が奥へ沈みこむように、温かい一樹の映像で埋めていく。大丈夫。大丈夫……。
俺は一樹のために生きているんだ。
一樹のおかげで幸せなんだ。
過呼吸気味になっていたのが、少しずつ落ち着いてきて、身体の強張りも無くなってくる。
冷たくなった手の先にゆっくりと血が巡っていき、狭くなった視界が戻っていった。
その後も数回か深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。
「……はぁ」
俺はうつろな目で周りを見渡す。良かった、誰もスタッフに会わなくて。こんな風になっているところは見られたくはない。
(もう随分前のことだけどいつまでも鮮明に思い出すな……。でも、辛くても、……思い出したくなくても、忘れてはいけない……)
もう数えきれないぐらいのフラッシュバックで過呼吸になっているけれど、一樹が生まれた出来事を否定しちゃいけない。
……あの人を忘れちゃいけない。
いつもよりゆっくりと呼吸するのを意識しながら歩き、再びロッカーに向かって、直斗の飲み物や他にも必要そうな物を諸々を取った。
直斗のヒートから30分程経ったのを確認し、シェルターをノックする。
「昭仁だ。入っていいか?」
間を置いてシェルター内から返事があり、中に入る。陰圧部屋なので、入ったときにフェロモンの残り香がフワッと香るが、幾分薄くなっていた。直斗はぐったりと身体の力を抜いて潤んだ瞳で布団にくるまっている。
「布団に包まってるとイモムシみたいだな」
「う〜…、だって汚しちゃってさ……」
精子のことだろう。だが匂いは布団を覆ってるためかあまり感じない。
「そうだと思って制服の替えとタオルも持ってきたよ。あとシーツも。後で替えな。はい、飲み物」
「流石気がきく……。ありがと」
気怠げに受け取り、ペットボトルのお茶を寝たままコクコクと半分ほど飲み終える。
「はぁ〜……。お茶が美味い……」
「良かった」
一息ついて直斗は再び布団の中に丸まる。
「……あーあ、今日あんまり体調良くないと思ってたけど、まさかあのタイミングで発情するとか最悪だよ」
「こればっかりはどうしようもねぇよ。Ωの先輩達も新人の頃はよくシェルターにお世話になったって言ってたじゃん」
「そーだけどさぁ」
確かにタイミングは悪かったが、ヒートはコントロールできるものじゃない。心臓が勝手に動いているように、勝手にヒートになるのだ。
精子で汚れたまま話すのは嫌だろうと俺はすぐにまた出ていった。急変していた患者さんはある程度落ち着き、佐々木さん以外の看護師は急変対応から外れ、俺も通常業務に戻る。
時間に押されていたので、園さんに手伝ってもらい、自分の部屋もち患者さんの観察に回っていった。無事に回り終え、昼食がくる時間まで記録をしようとした時、スタッフステーションに栗林師長が帰ってきて、急変対応をした看護師達を労っていた。
「園君、急変の対応ありがとう。仕事も采配してくれたんでしょ?さっき佐々木さんから聞いたわ。残ってる仕事ない?」
「ないですよー。みんなとりあえず朝のルーチンは終わったみたいです。今日はイレギュラーだったんで、佐々木の部屋持ち1人と野澤君の部屋持ち2人俺が見てますんで」
「それは助かるわ。ありがと」
いつもであれば、急変の際は栗林師長が急変後の仕事の采配を決めているが、今日は毎朝の師長会議に加え、病院の運営会議もあったため、ほぼ午前中はいなかった。そのため園さんは師長さんに代わり、率先して采配をして動いてくれていたのだ。
「だけど、まさかヒートが2人も重なるなんてね。ここに勤めて初めてだわ。聞いた時に思わず疑っちゃったわよ」
師長が笑いながら話す。園さんも同じように笑っていた。
「ですよねー。永江君がなったときは流石に俺も焦りました」
「どちらも突発的なヒートでしょう?スタッフへのフェロモンの影響は大丈夫だったの?」
「そういや谷口が『またフェロモンに負けそうになった……』って悲痛そうな表情で落ち込んでましたよ」
「あらそうなの?谷口君真面目だからねー。櫻乃先生は?大丈夫そうだった?」
「けろっとしてましたよー。顔色一つ変えずにいつも通り。やっぱΩのフェロモンに慣れてるんですかね?」
園さんは櫻乃先生の身体の変化には気づかなかったようだ。感心しながら話している。
大事には至らなかったし、俺がわざわざ櫻乃先生のことを言うのは気が引けて黙って2人の会話を聞く。
「まぁ他の医師よりヒートにあたる機会は多いから慣れもあるのかもしれないわね。でも貴方たちがすぐにN95マスクを渡したから大事に至らなかったと思うわ。フェロモンはβでも正常な判断は出来なくなることがあるから」
「そうっすね。とりあえず無事に終わってよかったです。あ、今回のことでちょっと提案なんですけど、廊下に間隔空けてN95マスク置きませんか?谷口みたいに介助しててすぐにマスク取りいけないこともあるし、やっぱりマスク置く場所増やしたがいいと思うんですよね」
「そうね……。お互いにそうしたほうが安心できるかもしれないわね。午後のカンファレンスで提案して、みんなの意見聞きましょうか」
「お願いしまーす。おっ、ご飯がきたみたいだな。野澤君、患者さんに配りに行こうか」
「あ、はい」
エレベーターのほうで、ガタガタと食事が運ばれてきた音がした。
食事を配り終えて休憩に入り、直斗に軽食を差し入れして一緒に食べる。気落ちしていたけれど、園さんも佐々木さんも顔を出してくれて、直斗は少し気分が上昇したみたいだった。
午後の業務もなんとかこなし、慌ただしい1日は無事に終わりを迎えることができた。
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