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【夕立ち】2~東山晶~
冷房の効いた特別棟の多目的室で、晶は一時間の補講を受けた。内容はテストに出た範囲をもう一度復習するという、実につまらないものだった。
「いいかー。ここの妹 の訳を間違えた奴、多かったからなー。これは授業でも散々説明したが、男性から妻、恋人、姉妹、その他の女性一般を親しみを込めて呼ぶ言葉だ。妹 って書いてあるのはバツにしてある。それからその後の振り分け髪。ここも間違いが多かった。振り分け髪ってのは、八歳ごろまでの子どもの髪型のことで――」
前にも聞いた覚えのあるような説明を聞きながら、晶は壁にかけられた時計にちら、と目をやった。
あと十分……、あと十分……、あと――。
「こら、晶!」
不意に名前を呼ばれる。晶は慌てて教師の顔に目を戻した。教卓の前に立つ古典担当の教師は、眉間 に皺 を寄せてこちらを睨 んでいる。晶はきょろきょろと周囲を見渡して、その鋭い視線が自分に向けられていることを確認した。
「他に晶はいないだろ。いいか。次、時計見たら、晶だけ五分増やすからな」
「えっ」
「さっきからちらちら時計ばっかり見て。しっかり集中しなきゃだめだぞ」
しっかり叱られて、晶は肩をすくめた。時間が延びるのだけは絶対にごめんだ。集中力はすでに切れてしまっているが、あと十分、あと十分集中すれば終わる、と晶は自分に言い聞かせる。
「で、この次に出てくる歌の意味だけど、これは――」
虫食いだらけの自分の答案用紙と黒板を見比べながら、仕方なくノートを取る。改めて、これはひどい、と下唇を突き出した。しかし、ラブレターを書くことに明け暮れて何も勉強をしていなかったにしては二十八点はすごいのではないか、と暢気 にも思ったりもした。
その後、どうにか十分間集中して補講を終えた晶は、すぐに支度をして多目的室を出た。ケータイをポケットから出して、電話をかける。相手はもちろん、三木だ。
先輩……。
きっとすぐに出てくれるだろうと思った。三木はいつだってそうだったからだ。しかし、どうしたことかケータイはなかなか繋がらない。教室にいるのだろうか。晶は多目的室のある特別棟の階段を下りていく。しかし、階段の踊り場の窓から中庭が見えた時。足が止まった。同時に、心臓がドクン、と大きく波打った。
あれって……、三木先輩と、間宮先生……。
強い日差しの照る中庭の自動販売機の前で仲良さそうに話すのは、紛 れもなく三木と国語科教師の間宮だった。三木はこれでもか、という笑顔で何かを話し、時折、頭を下げている。間宮もまた、頭を掻 きながら笑みをほころばせている。二人ともとても楽しそうだ。
……仲良さそう。そりゃそうか……、間宮先生は三年の現代文担当だし、三木先輩は、あの人のことがずっと好きだった……わけだし。
駆け下りていた階段を、今度はゆっくり下りながら、晶はため息を吐 く。どうしたことか、急に体の力が抜けてとても重く感じた。胸の奥はチクチクと痛んで煩 わしい。
先輩だって、おれとだけ仲がいいわけじゃないよな。おれはただ、最近つるんでるってだけだし、もしかしたら三木先輩は、先生のこと今も好きなのかもしれないけど、そんなのは別におれが気にすることじゃないし……。
自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返し呟いた。ひょっとしたら自分は少し勘違いをしていたのかもしれない。ここ最近、三木に良くしてもらっているのを、晶は自分がちょっと特別だからだと勝手に、そして無意識に思ってしまっていた。当然だが、三木にだって友人は少なからずいるだろうし、晶だけが特別というわけでもないのだ。
彼はきっと自分と同じ境遇にいる晶に同情し、慰 めようとしてくれているだけで、それ以上でもそれ以下でもない。同性に恋をする苦しさも、叶わなかった辛 さも、彼は知っている。だから毎日晶を迎えに来てくれるし、晶をいつも気にしてくれている。謂 わば、面倒を見ているようなものなのかもしれない。
そうだよ……。おれは二つも年下だし、ガキだから面倒見てもらってるだけで、三木先輩が好きなのは間宮先生なんだから、別におれは――。
そこまで思って、ハッとした。
あれ……。なんかおれ……ショック受けてる……?
三木が好きなのは間宮だ。それは、はじめに聞かされていたことだった。別に今更、ショックを受けることではないし、彼が今もまだ引きずっていたって晶には関係ない。晶が好きだったのは純で、三木ではないからだ。当然、三木が誰を好きでいようと構わないはずだった。
それなのにこんなにも胸がざわついている。どうして仲の良さそうな三木と間宮を見て、晶が動揺するのだろう。まさか、三木が自分を好いてくれているとでも思っていたのだろうか。いや、それよりもまず、自分の気持ちだ。これは晶の気持ちが今、三木に向かっている、ということだろうか。
もしかしたら……。おれは先輩のこと……気になり始めてる……のかな。
晶はかぶりを振る。それから、またため息を吐 いた。もし、そうだとしても。三木と自分ではとても釣り合わないし、間宮にだってどうしたって敵わない。あんなに大人でいつも落ち着いていて、見てくれだってそう悪くはない間宮だ。まだ高校一年生の自分では、彼の代わりになることなんかきっと難しい。
それに三木には間宮が似合いだと思った。少なくとも、自分よりはずっと、三木の隣の方が似合う。ただし、彼はもう結婚することが決まっているし、恐らくは異性愛者だ。間宮が三木を選ぶことはきっともうないのだろう。想いを告げられないままでいる三木の気持ちを思うと、晶は胸を押し潰 されそうだった。その気持ちは、痛いほどわかる。
「先輩は……、それでも間宮先生のことが好きなのかな……」
中庭に出て、遠くから二人の姿を見つめる。晶の電話に気付かないほど、三木は間宮との話に夢中になっていたのだろう。そう思うと少し悔しくなった。大人二人の会話に、子どもが一人、入れないでいるような気分だ。
しかし、いつまでもこうして面白くない光景を大人しく指を咥 えて眺めてもいられない。晶は三木の側 へ駆け寄った。
「先輩!」
声を張って、三木を呼ぶ。はじめに目が合ったのは間宮だった。晶はすぐに目を逸 らす。背を向けていた三木は振り返り、晶を見た途端に目を細めた。
「おつかれ。無事に終わった?」
「はい。あの、さっき電話したんですけど……」
「あぁ、ごめん。そうだったんだ。もしかして探してた?」
「いえ。階段下りてきたら、すぐ見つけましたから……」
間宮と三木が並んでいるのを前にして、やはり胸がざわついた。とにかく面白くない。晶は口を尖らせる。ここで感情をあらわにしてもどうしようもないことはわかっているが、どうにも苛立 ちを隠し切れなかった。
「ごめん、ごめん」
「別に……。いいですけど……」
不機嫌な晶を見て、三木は何か察したのだろうか。すぐに「先生、それじゃまた」と言うと頭を下げ、その場を後にした。晶は慌ててその後を追い、三木と共に帰路についた。
風を受けながら、晶は三木の後ろに付いて自転車を漕いだ。さっきまで晴れ渡っていたはずの空には、いつの間にか黒い雲が広がっている。夕立ちでも来るのかもしれない。今にも泣き出しそうな、どんよりとした空だ。
晶の心の中は、それとどこか類似しているような気がした。晶の心の中にも今、どんよりとした雲が広がっている。少しずつ変わり始めている自分の気持ちに気付いたものの、それには自信が持てずに戸惑っていた。
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