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【夕立ち】3~東山晶~

「晶ー、どっか寄って帰ろうか? 俺、今日はバイトないからさ、カラオケとか……、それかまたファミレス行くのもいいし――」  自転車を漕ぎながら、三木が言う。二人で夜まで遊ぶ時間があるのは初めてのことだ。新しくできたショッピングモールでも行ってみようかなどと、三木はさっきから考えを巡らせているようだった。  しかし、晶は三木の言うことには大して答えられないでいる。頭の中は、変わり始めた自分の気持ちのことでいっぱいで、他のことを考える余裕はなかった。  おれはついこの間まで、純ちゃんのことが好きだったはずなのに……。もう先輩のことが気になってるなんて、軽すぎるよな……。だけど……。  目の前で自転車を漕ぐ広い背中を見つめると、トクン、トクンと心臓が確かに高鳴っていく。それは三木の祖母の言葉通り、失恋した日に思い切り泣いたせいなのだろうか。あの涙がみんな(つら)いことを流してくれたおかげで、新しい恋が始まっている、そういうことなのだろうか。何にしても、晶の中であんなに(ふく)らんでいたはずの純への恋心は今、自分でも信じられないくらいに薄れていた。  先輩が迎えに来てくれるのが嬉しいのも、一緒にいて楽しいのも、好きだから、なのかも……。 「晶、どうかしたー?」  明らかにいつもとは違う晶の様子に気付いたのだろう。三木が心配そうな声で()く。だが、それにもまともには言葉を返せない。 「いや……。別に……」 「でも、何かさっきから元気ないじゃん?」  また三木が(たず)ねた。晶を気遣う彼の声が優しくて、じんわりと体が熱くなる。一体いつの間にこの体は、こんな風に反応するようになっていたのだろう。 「あの、先輩……?」 「んー? 何?」  三木は振り返らずに聞き返す。晶は懸命に自転車を漕ぎながら、晶の横に付いた。自分の気持ちに気付いてしまった今、三木にそれを聞かずにはいられなかった。 「先輩は、やっぱりまだ、間宮先生のことが好きなんですか」 「え……?」 「あ、いや。すみません、急に……」  自分がこんなことを聞いて知ったところで、たぶん、何も変わらない。だが知りたかった。三木が今、間宮をどう思っているのか。引きずっているのか、いないのか。好きなのか、そうでないのか。自分自身もまだ、この気持ちに戸惑っている。純ではなく、三木の気持ちが知りたくて(たま)らないことも、間宮に対して苛立(いらだ)ちを覚えたことも、三木の楽しそうな笑顔を見て、ショックだったことも。しかし、それらは確かに、無意識のうちに感じていたことだった。そして、三木への恋が芽生えていることの証でもあった。晶の問いかけに、三木は少し驚いたようだった。だが、すぐに笑みを見せてくれる。 「謝らなくていいよ。なんで晶はそう思ったの?」 「さっき、先輩が間宮先生と話してたの見て、何となく……」 「何となく?」 「たっ、楽しそうだったから……!」  ところが、ちょうどその時だった。突然、頭上から轟音(ごうおん)が聞こえた。地鳴りのようでもあって、砲声のようでもある音。雷鳴だ。 「あれ。雷鳴ってる……」  晶の問いかけには答えていないまま、三木は言う。じっとりとした暑さの中、吹く風はやけに涼しく感じた。ほどなくして、頬にはポタッ、と生(ぬる)い水滴が落ちる。それは一つ、また一つ、と頬や腕に落ち、だんだんと増えていった。 「うわ、降ってきた……! 晶、急ごう!」 「は、はい……!」  二人とも、生憎(あいにく)傘を持っていない。サドルから腰を上げて勢いよく漕ぎ出していく三木を、晶は必死で追いかけた。辺りには激しい雨音が響き始める。二人は何も言葉を交わさずに、ひとまず自転車を駅の方へと走らせた。  降り出した雨も、七月にしては幾らか涼しい風も、一刻、一刻過ぎる度にどんどん強くなっていく。すでにシャツは雨に濡れて、肌に張り付いていた。腕も頬もスラックスも、びしょびしょに濡れている。駅前の繁華街近くに着いた時、三木が言った。 「晶……! このまま家においで! すぐ近くだから!」 「あ……、えっと、はい……!」  声を荒らげた風で言われ、遠慮する余裕もなく晶は答えた。大粒の雨が降りしきる中、三木の後ろに付いて、晶はひたすら自転車を漕ぐ。やがて三木は、閑静な住宅街に入って行き、間もなく一軒の家の前で停まった。 「いやー、降られた降られた……! 晶、制服脱いじゃった方がいいよ。冷えるからシャワーも浴びちゃいな」 「えっ! でも、悪いです……から……」 「何言ってんの、そんなびしょびしょのままいる気?」 「あ……」 「風邪ひいちゃうよ」  ひんやりとした玄関に二人の声が響く。三木の家は、その外観を見れば金銭的に安定していることが見て取れる、立派な一軒家だった。家の中はよく掃除されているのか、玄関にもフローリングにも埃一つ落ちていない。どこもかしこもピカピカだ。その家に、今、晶は上がろうとしている。頭の上から足の先まで雨に濡れて、革靴を脱げば靴下までしっかり濡れていた。この状態で、人様の家に上がるのはちょっと気が引ける。もちろん、びしょ濡れなのは三木も同じなわけだが。 「でも、先輩……。おれ、びしょびしょだし……」 「大丈夫。俺もびしょびしょだから。ティーシャツとハーパン貸すよ。風呂場こっち。ついてきて」  やむを得ず、言われるまま家に上がって、三木の後に付いて行く。リビングの前の廊下を通り、三木が扉を開けた先に、脱衣所と洗面台があった。曇りガラスの風呂場に続く扉は、半開きになっている。比較的新しく、綺麗な風呂場はやはりよく掃除されているのだろう。入るのも少し申し訳なく思うくらいにピカピカだった。 「シャワー浴びてる間に、ここに着替え置いとくから、それ着て。あ、パンツは大丈夫?」  慌ててかぶりを振る。いくらなんでもそこまでは甘えられない。大体、もし晶がダメだと答えたら、三木のパンツを借りることになるのだろうか。それは明らかにサイズが合わない気もする。いや、そういう問題でもない。 「大丈夫です……! パンツは!」 「そう? もし濡れてたら遠慮しないで言って。たぶん、新品買ってあると思うから」 「は、はい……」 「ドライヤーはここ。使い終わったタオルはこのカゴの中に入れといて」 「はい……」 「じゃあ、俺はリビングにいるから。終わったら声かけてね」  そう言って、脱衣所に晶を一人残し、三木は出て行った。軽くシャワーを浴びた後、脱衣所の棚の上には真っ白いバスタオルと丁寧に畳まれたティーシャツとハーフパンツが置かれていた。晶は少し申し訳なく思いながらも、それに着替えてリビングへ向かう。  いい香り……。柔軟剤かな……。  腕を通した服や髪を拭いたタオルは、どれもふわんと花の香りがした。だが、借りた服は晶にしてはやはり少し大きかった。  リビングの扉を、恐る恐る開ける。三木は晶と同じくティーシャツとハーフパンツに着替えていた。首にはフェイスタオルを下げ、髪はまだ生乾きのまま台所に立っている。その姿に、晶はその場に立ち尽くしたまま見惚(みと)れてしまった。  いつもの制服姿とは違う、ラフな格好でいる三木を見るのは新鮮だ。おまけに濡れたままの髪はより一層、大人びて見える。心臓はすぐに反応してドキドキと高鳴り始め、晶は慌てて胸元をトントン、と叩いた。 「先輩……。シャワー、と服も……、ありがとうございました……」 「おかえり。冷たい麦茶しかないんだけど、飲む?」 「はい……」  返事をすると、三木は晶に目をやってにこっと笑みを浮かべ、冷蔵庫から麦茶を取り出した。涼しげなドット柄のグラスを棚から出し、それに注いでから、「はい、どうぞ」と晶に手渡してくれる。その一瞬、指先が触れて、余計に心臓はうるさくなった。  やけに大人びたその雰囲気を、何と言えばいいだろうか。今の三木に対してぴったりの言葉がなかなか見つからないが、ようやく思いついたのは「色気」という言葉だった。そうだ。きっとこういうのを、男の色気というのかもしれない。まだ高校一年生の晶にもそれは漠然(ばくぜん)とではあるが感じることができた。ふと気づくと、麦茶を飲む晶の頬に、三木の視線が刺さっている。じっとこちらを見つめる理由がわからず、晶は首を(かし)げた。 「どうかしました?」 「……ううん。俺の服だとちょっと大きかったなぁ、と思って」 「あぁ、いえ。別に大丈夫です」  確かに(おっしゃ)る通りなのだが、服を貸してもらっただけでもありがたい。ちょっと肩の辺りがぶかぶかで、ハーフパンツも時折ずり落ちそうになるものの、それは大したことではなかった。しかし、三木は晶の肩の辺りを(しき)りに気にして何度も直しながら、「肩がずるって見えちゃいそう。気を付けて」などと言っていた。気を付けて、と言われても、一体何をどう気を付ければいいのかわからない。ただ、言われたことには従順に「はい」と答えておく。 「さてと。じゃあ、俺もざっとシャワー浴びて来ちゃうね」 「はい……」 「今日は誰もいないから、テレビでも観てくつろいでて。あー、それか俺の部屋行って、待ってる?」 「いえ、ここにいます」 「そう? 楽にしてていいからね」  三木がリビングを出ていく。晶の心臓は一層大きく波打っていた。  今日は、誰もいない……だって。  この家には今、晶と三木の二人きりらしい。そんなことを言われたら、今さっき三木への気持ちに気付き始めたばかりの晶の脳内では、自然といかがわしい妄想がはじまってしまう。晶は慌ててかぶりを振って、気を(まぎ)らわそうとテレビを()けた。ところが。 「わ……!」  偶然にもテレビ画面に映ったのは、昼のメロドラマだ。画面の中では男女が(から)み合うように抱き合って熱いキスを交わしていた。二人はやがてベッドへ倒れ込んでいく。それを見て、晶はあたふたしながらテレビを消した。だが、頭の中では妄想がすでに始まってしまっている。  三木に抱きしめられ、強引に口づけられ、たとえばこのソファへ押し倒される。そんな妄想だ。ドクン、ドクン、と心臓が高鳴った。  何考えてるんだよ……! おれのバカ……! この、変態、スケベ……!  ただし、思春期()只中(ただなか)の晶の頭で、想像できることは限られている。ドラマの中の二人がその先、一体どうなるのか。その情景はぼんやりとしか浮かばない。二人が愛し合っていて、求め合っていることはわかっても、具体的に何をどうするのかは晶にはイマイチわからない。それでも晶の心臓は高鳴ってしまう。だが、ふと思う。恋をしていれば恐らくは皆、同じことを考えるはずだ、と。  おれが三木先輩のことばっかり考えて、こんな風に妄想してるみたいに、三木先輩は間宮先生とそういうことしたいって思ってたりするのかな……。  そう思うと、胸の奥がチクチクと痛くなった。晶は胸をぐっと押さえる。三木が選ぶ相手は是非とも自分であってほしい。必要なら背伸びだって、大人のフリだって覚えたい。彼に似合う男になってみせる。もちろん、今すぐにとは言えないが――。 「はぁ、早く大人になりたい……」  しばらくそうして、悶々(もんもん)と三木のことを考えていた。だが、やがてリビングの扉が静かに開く。

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