12 / 23

【夕立ち】4~東山晶~

「晶、お待たせ」 「わぁ……っ!」  ビクッと肩を震わせて、ソファから飛び起きるようにして立ち上がる。すると、三木は驚いたような顔を見せたが、すぐにけらけら笑いだした。 「そんなにビックリしないでよ。あれ、テレビ()けなかったんだ」  三木が晶の(そば)を通った瞬間、風呂上がりのシャンプーの香りがふわりと漂ってくる。恐らく自分も同じ香りを身に(まと)ってここにいるのだろう。当たり前のことなのに、それにはとても嬉しくなった。三木とお(そろ)いのものを身に着けているような感覚になったのだ。 「いやー、お腹減っちゃったなー」  冷蔵庫を開けて中を(のぞ)きながら、三木は言った。さっきまで濡れていたはずの髪は今は乾いてさらさらとしている。濡れた髪のままの三木は(つや)やかで、思わず見惚(みと)れてしまったが、真っすぐでさらさらとした柔らかそうな栗色の髪もまた、とても綺麗だ。 「晶も減ってる?」 「は、はい……!」  慌てて返事をする。三木の姿に見惚(みと)れるあまり、返事をすることすら忘れかけてしまう。 「そっか。ね、お昼どうしよっか? ラーメンならすぐ作れるけど」 「ラ、ラーメン……! いいんですか……」 「もちろん! 作るって言ってもインスタントだけどね。それでよければ」 「ラーメン、食べたいです!」 「ようし。それじゃあ、ちょっと待っててね」  三木は鍋に湯を沸かし、棚から二つのどんぶりを取り出した。その中にたれや出汁を入れて、ネギを刻み始め、卵やチャーシューを冷蔵庫から取り出す。そうして、あっという間に二人分のラーメンは出来上がった。  それはしょうゆ味の、どこにでも売っているようなインスタントの袋ラーメンだったが、ネギの他にチャーシューもちゃんとトッピングされている。三木は最後に卵をぽとん、と落としてくれて、ラーメンはダイニングテーブルの上に運ばれてきた。いい匂いに誘われて、晶は言われずともその席へ着く。 「はい、どうぞ」 「美味しそう! いただきます……!」  三木が作ってくれたインスタントのラーメンは、普段、自分がただ胃袋を手っ取り早く満たすためだけに作るそれとはまるっきり違っていた。第一、晶は母親や祖母以外の人間にこんな風にラーメンを作ってもらったことなど一度もない。純といても、一緒にカップラーメンをすするくらいなものだった。 「すごい美味しいですね……!」 「えぇ? インスタントなのに、大袈裟(おおげさ)だなぁ」 「でも、本当に美味しいです……」 「そう? よかった」  ダイニングのテーブルに向き合って二人で無言のままラーメンを平らげた後、三木は麦茶を()ぎ足してくれる。本当に至れり尽くせりだ――と、思ったが、そもそも最初から三木はそうだったことを思い出した。  先輩は元々優しい人だから……。だから、きっとおれの面倒もこうやってみてくれてるんだろうなぁ……。  そう思うと嬉しい反面、ちょっとだけ寂しくなった。ふと気付くと、三木が頬杖(ほおづえ)をついてこちらをじっと見つめている。視線がぶつかった。三木はにこっと笑みを浮かべる。 「それで。さっきの話だけどさ」 「え……?」 「俺がまだ先生を好きかどうか、聞いただろ?」 「あ、はい……」  そうだった。晶は突然の雷雨と三木の家へ来たことで、それを聞いたことをすっかり忘れていた。(なか)ば勢い余って聞いてしまったところもあったが、後悔はしていない。晶はやはりどうしても、三木の今の気持ちが知りたいのだ。晶は三木が何か言うのをじっと待った。ほどなくして、三木は目を()せ、静かに話し始める。 「先生のことは長い間好きだったからさ、完全に忘れるまでにはそれなりに時間がかかるかもしれないんだ。でも――」 「でも?」 「今は先生のことがどんどん薄れてる。誰かさんのおかげ、かもね」  じっと見つめられて、心臓がドクン、と大きく波打つ。それが誰なのか。まだ三木は何も言っていないのに、晶は期待していた。それが自分だったらいい、(むし)ろ自分なのではないだろうか、と本当に無意識に思っていた。 「誰かさん……」 「うん」 「誰ですか……?」 「誰だと思う?」  (つば)をごくん、と飲み込む。やたらと大きく波打ってうるさい心臓をそのままに、晶はただ、ひたすら三木を見つめた。 「だ、誰だろう……?」 「ナイショ」 「えっ」  くすくす笑いながら、三木は立ち上がった。それから、からっぽになった二つのどんぶりを片付け始めている。晶も慌てて立ち上がって三木の(そば)へ寄った。 「ご、ごちそうさまでした!」 「お粗末様でした」 「おれ、洗います!」 「ありがとう。でも洗うのは俺がやるから。晶は拭く係ね」 「はい」  晶を横目で見ながら、三木は晶にふきんを手渡して言う。その頬は(ゆる)んで、声には少し笑みを含んでいた。三木の表情に釣られて自分の頬まで(ゆる)んでくる。何ともくすぐったいような、ぎこちないような雰囲気に包まれて、二人は台所に並んだ。しばらく互いに黙っていたが、シンクに下げたどんぶりを洗いながら、三木が不意に(たず)ねた。 「ねえ、晶は?」 「おれ……ですか?」 「うん。晶は、まだ青野のこと好き?」  晶は首を横に振った。晶だって、純のことを全部忘れたわけではない。好きだったことは今もしっかりと覚えている。しかし、今は日に日に想いが薄れてきていて、純のどこに()れていたのか、どんな風に好きだったのかを思い出せなかった。代わりに晶の中では、三木の存在が大きくなっている。思い出せないのは、たぶんそのせいだった。 「純ちゃんは幼馴染だし、あんなフラれ方だったけど、今も嫌いじゃないです。でももう、好きっていうのとは違くて……」 「……だいぶ(つら)くなくなった?」 「はい……。その、先輩が一緒にいてくれる、から……」  自分で言ったそばから、頬がかあっと火照(ほて)っていくのがわかる。自分が今言ったセリフも、これだけ火照(ほて)っていれば、真っ赤になっているであろう頬を見られるのも、どうしようもなく恥ずかしくなってきて、晶は顔を(うつむ)かせた。すると一瞬、間を置いて三木が言う。 「そっかぁ……! それならよかった!」  その声があまりに嬉しそうなので、晶は思わず顔を上げてしまった。三木は顔いっぱいに笑みを浮かべて、顔を耳まで真っ赤にしている。本当に嬉しそうだった。だから晶も嬉しくなった。三木が笑みを顔いっぱいにほころばせて喜んでくれたことがあまりに嬉しくて、晶は何も言えなかった。ただ(ゆる)みっぱなしの頬を引っ込めながら、ひたすら、懸命に三木が洗った皿をこれでもかというほど綺麗に拭いた。  その後、晶は雨が上がるまで三木の部屋で過ごした。ゲームをして遊び疲れた後はDVDを適当に観ていたが、そのうち気が付かないうちに、三木はうとうとと居眠りを始めていた。  先輩、ほんとに綺麗だなー……。  船を漕ぐ顔を見つめて、晶は思う。純を好きだった数年間もの想いは、こうしている間にもどんどん薄れている。ラブレターを受け取ってもらえずに泣いたあの日も、今はもう遠い昔のことのようだ、と思えてしまう。  おれなんかじゃ先輩には釣り合わないかもしれない。それはわかってる。だからおこがましいほど期待しようとは思わない。先輩だって、失恋したばっかりで、まだ先生への気持ちだって残ってるんだから。  わかっている。自分なんか、きっと彼のタイプでもなければ、理想にも程遠いのだ。けれど、ほんの少しだけ。晶は期待していた。もうすぐ、もうすぐ晶は、三木をどうしようもなく好きになって、彼もまた、晶を好きになってくれる。そうして、映画やドラマのような、大人の恋愛をする。いつか、きっとそんな日が来るのだ――と。

ともだちにシェアしよう!